2023年8月17日 0:00:00 JST

「キリストに奉仕し、キリストと共に統治することで、誰が利益を得られるのか。」チチ・チセケディ教区使徒は2023年標語を考える中で、こう問いかけ、後代の人々に何を残そうとしているのかを考察しています。

 

 

もし私たちが平和の王国でキリストに仕え、キリストと共に統治するならば、私たちはその後の新天新地においてキリストと共に奉仕するだけでなく、神様に奉仕することになります。しかし、もう今から、与えられている手段と現在の状況の中で神様に奉仕する必要があります。キリストが教えてくださったように、礼拝に出席し、互いに仕え合うことによって、神様に仕えるのです(ヨハ13:14-15)。

 

私たちは互いに奉仕し合うように召されています。この地上に住むすべての人々の中で、私たちが知っている人、身近な人に奉仕することは十分に理解できます。それは必ずしも神様への愛によるものではなく、物理的な近さによる相手への愛情によるものの可能性があり、こうした感情が入り交じることもあります。

 

すでに故人となった人もたくさんいらっしゃいます。その中には知っている人もいれば、知らない人もいます。そういう方々にも仕えるるのです。

 

そこで考えてみましょう。私たちは、まだ生まれていない、まだ何も知らない、そうした人々を考えたことがあるでしょうか。おそらくないでしょう。しかし、この人たちもこの世に生き、主の到来を待ち望むようになるのです。

 

私たちがこの世にいる間にキリストが再臨なさらないことがあるかもしれません。ですから私たちに代わってこの地上に生まれ落ちる人々のことを考えましょう。すると「目を覚ましていなさい」(マタ25:13)という勧めは非常に貴重です。たとえ、主が間もなく戻って来られる(黙3:1)ことを自分の中で認識していても、人々に仕え、その人々の救いに必要なことを彼らの心に刻みつけなくてよいわけではありません。この救いに必要なことは、もちろん自分たちが教会で見つけることになります。これはある意味で相続するものであり、物質的なものであると同時に霊的なものでもあります。そして、後代の人々が利益を得られるように、受け継いでいかねばならないものなのです。

 

すべての奉仕は、キリストの再臨に照準を合わせたものであるべきです。もし私たちの行動が主の再臨に向けられたものであるなら、投資としてのその働きが永続的なものとなります。神様は、人を創造された時、人に地を耕し、守るように指示されました(創2:15)。しかし、この責任を私たちが真剣に受け止めてこなかったために、自然破壊に苦しんできましたし、後代の人々までがさらに苦しむ危険性をはらんでいます。

 

キリストの教会であることが最もはっきり認識できるのは、使徒が現職として活動し、生者と死者にサクラメントが施与され、御言葉の適切な宣教を聞くことができる場所です。教理要綱の第6章「イエス・キリストの教会」を読めばわかるように、主による贖いの業とは、キリストの花嫁が天の婚姻に備えることです。この贖いの御業に携わり、これを有効に活用する責任が、私たちすべてにあると思います。これは、使徒や教役者だけでなく、やがて王の祭司の一員となる私たち一人ひとりの責任です。この贖いの御業への関わりがどんなに小さくても、その関わりが、現在この御業に携わっている人々や、将来この御業に携わることになる人々の人生に、大きな影響を与えるのです。このことを肝に銘じ、私たちが行うすべてのことにおいて、霊的・物質的資源をどのように使うかに注意を払いましょう。

原著: Tshitshi Tshisekedi

https://nac.today/en/158033/1140288→

nac.today: New Apostolic Church International

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