2023年10月25日 0:00:00 JST

初穂という考え方が良く引き合いに出されますが、この初穂というものをどう理解すべきでしょうか。初穂とは一部のエリート層を指しているのではない、と主使徒は明言しました。神様と隣人に仕えるよう召されているのが初穂であることを、改めて説いたのです。

 

 

ジャン=ルーク・シュナイダー主使徒は、西太平洋教区への伝道旅行において、オーストラリア、日本→、韓国を訪問しました。202388日、主使徒はアデレードの会衆のために礼拝を司式し、基調聖句としてヤコブの手紙118節を引用しました。「御父は、御心のままに、真理の言葉によって私たちを生んでくださいました。それは、私たちを、いわば造られたものの初穂とするためです。」〔以下、説教の概要〕

 

 

初穂が優れているわけではない

初穂の地位についてはっきりさせておきます。私たちは自分の人徳で神の子になっているわけではありません。他の人より優れているから神の子になっているわけでもありません。人より清いから、才能があるから、などの理由で神の子になったのはありません。ひとえに恵みなのであって、選ばれていること、召されていることに説明を付けることはできません。ただ唯一分かっているのは、私たちに神の子になる資格はない、ということです。しかしこの召命を受け入れてこれに従うことは大切です。秘義ではありますが、大切なのは、聖霊が私たちに現れて〔啓示〕、何の目的で私たちが選ばれ召されたかを教えてくださるということです。」

 

 

初穂の奉納

初穂とは一年の最初に収穫した物をいいます。ユダヤの律法すなわちモーセの律法によれば、初穂は神様のものでした。ユダヤ人は初穂を別にして、それを神様に供物として献げました。初穂を自分たちのために蓄えておくということはできませんでした。神様のところに持って行き、神様に献げるべきものでした。献げ物は感謝の表現でした。

 

初穂を奉納するとは、才能、時間、長所を神様と隣人への奉仕に用いることです。その年初めて獲れたものを献げるのです。あとの残り物ではありません。そのようなことをしたら神様のものを最初に減らしてしまう危険性があるのです。

 

 

奉仕するために神に清められる

私たちが選ばれた目的ですが、私たちは神様に仕えるために、そしてパウロが言っているように、神様への生きたいけにえとして人生を献げるために、神様に清めていただきました。自分が選ばれ召されているのは、主に仕え、救いのご計画と御業に貢献するためであるということを、いつも自覚することが大切です。

改めて申し上げますが、私たちは他の人たちと何ら変わりません。初穂であることによる特殊性は一つしかなく、それは使命を与えられているということです。私自身、キリストの再臨に備え、千年の平和王国で王の祭司の一人にならなくてはいけないと思っています。たくさんの人たちにとって自分が祝福となるよう召されているからです。このことに対する自覚は、人生で何があろうと、決して忘れるわけにはいかないのです。

 

 

神のもの

イエス様が言っておられるように、初穂は神様と緊密に帰属しています。「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。」とはいえ、すべては私たちの気持ち次第です。主に留まりたいという気持ちがある限りにおいては、いかなる霊も、病気も、事故も、死も皆さんを御父から引き離すことができません。すべては私たちの気持ち次第なのです。

 

私たちが自由に選べるというのは特別な力にもなります。悪魔は私たちを自分の思い通りにすることができないからです。私たちは自分の交わり、神様との関係を決めることができるのです。選べるとはそういうことです。

 

 

すでに収穫物の一部である

神の子である私たちは、水と聖霊によってもう一度生まれた者です。この初穂はまだ完全に新しい被造物とはなっていませんが、新しく生まれてはいます。すでに被造物の初穂であり、洗礼と御霊の証印を通してキリストによって新しく生まれたのです。この新しい被造物、新しい果実を今の段階で見えるものとする必要があります。愛、知恵、平和、節制という、御霊の実を結ばせる必要があります。

 

しかし、初穂の地位が高いわけではありません。私たちは救っていただける唯一の人々ではありません。最良の収穫物について知らせる収穫物の一部に過ぎないのです。最大の収穫物というお方は、まだおいでになっていません。

 

原著: Simon Heiniger

https://nac.today/en/158033/1226373

nac.today: New Apostolic Church International

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