2023年10月30日 0:00:00 JST
11月の礼拝は、終末論を取り上げます。終末論とは、「終わりの時についての教え」を指す専門用語です。陰府の領域と終わりの時をどう捉えるか、を考察します。
11月最初の礼拝は「希望」と題して執り行われます。週中礼拝は「木は切られてもまた芽を出す」というたとえについてのものです。聖句はヨブ記14章7節です。要するにこのたとえの意味は、キリストによる贖いの力によって死者にも生者にも救いに至る道を備えていただける、ということです。
この世と陰府
そこで11月第一日曜日を迎え、故人のための礼拝となります。ヨハネの黙示録1章17~18節には「イエス様は陰府(よみ)と死の鍵を持っておられる」と書いてあります。天と地において――つまり陰府においても――あらゆる権威がイエス様にある、ということです。「命の水が欲しい者は、価(あたい)なしに飲むがよい」と招いてくださっているように、キリストによる救いは死者も生者も与(あずか)れるのです。
霊と花嫁
第二日曜日の聖句であるヨハネの黙示録22章17節も同じ文脈から引用されています。「霊と花嫁が共に言う。『来きたりませ』」がこの聖句の主旨です。聖霊は、私たちがキリストの再臨を希望し続けられるようにしてくださいます。花嫁の会衆は、言行を通じてキリストの再臨を希(こいねが)います。そしてこれには、この願いにすべての人が加わるよう促す意味があります。
奉仕し統治する
キリストの再臨に続いて、次の週中礼拝は、イザヤ書2章3節に書かれているたとえを引用します。第一の復活が完了すると、キリストは地上に千年の平和王国をお建てになります。キリストとその民は、生者死者すべての人々に福音を宣べ伝えます。イザヤが用いている「人々がシオンに向かう」というたとえは、福音が宣教されてそれが多くの人々に受け入れられることを意味します。
裁きと憐れみ
第三日曜日は、救いのご計画における次の段階が明らかにされます。それは、ヨハネの黙示録20章12節に書かれている、神様による最後の審判です。全人類は、裁き主である神様の御前で自らの行為に対して申し開きをしなければいけません。すでにキリストが再びおいでになる時点で、審判は行われます。初穂は迎えられてキリストと一つに結ばれるからです。それ以外のすべての人々については、最後の審判において、キリストへの信仰を積極的に公(おおやけ)にしてきたかどうかが明らかになります。
希望と準備
しかし新使徒教会にとって、信仰の目標がコリントの信徒への手紙一15章51~52節に書かれている初穂の復活であることに変わりはありません。キリストは、ご自分の来臨を待ち望んでそれに備えてきた死者生者を、御許(みもと)に引き上げてくださいます。この人たちは新しい体を与えられることになります。イエス・キリストが死者の中から復活されたことは、私たちにとって希望の基本です。
機会はすべての人に
使徒言行録17章31節から引用された青年礼拝〔日本では行われません〕の聖句は、11月における終末論というテーマを多かれ少なかれまとめています。その主旨は「神様が人となられたこと〔受肉〕は、神様が人間を愛しておられることの証明である」ということです。イエス・キリストによる裁きは断罪のためではなく、正義を確立するためです。イエス様の愛が持つ力を体験しそれに従う機会は、すべての人にあるのです。
原著: Andreas Rother
https://nac.today/en/158033/1226333→
nac.today: New Apostolic Church International