2024年3月19日 19:48:00 JST

すべての人には幸せになる権利があります。マタイによる福音書5章3~10節によれば、イエス様は、一見して全く幸せそうでない人たちを祝福しておられます。3月20日は幸福の日として2012年に国連によって定められました。これを機会に、イエス様が教えておられることや祝福ということについて考えてみましょう。

 

 

たくさんの人たちがイエス様に従いました。イエス様は様々な所を旅し、奇跡をなさり、その説教を聞くために、たくさんの人たちがすべてを投げ出しました。ある日、イエス様は山に登り、最も重要な説教をなさいました。山上の説教は、その御教えを理解する鍵であると考えられています。

 

山上の説教は約束から始まります。教え、戒め、警告から始まるのではなく、幸福と祝福への糸口を与えることから始まります。「幸いである」とは「幸運である」とか「…な人は祝福されるべき」と訳されるからです。

 

誕生日であれ、試験に合格した時であれ、子供が生まれた時であれ、どの文化でも祝福の言葉を贈ります。旧約聖書ではおもに、信仰深い人、従順な人、信仰を公言する人、勇気のある人、神様に従い律法を学ぶ人を祝福しています。これと別の側面を強調しているのが、イエス様なのです。

 

イエス様は八福を通して、ご自分に従うことを選ぶすべての人を祝福し、招いておられます。イエス様の言葉はすべての人に向けられています。様々な人に向けられています。ユダヤ人や当時の特定の文化を持った人などに限定して語られているわけではありません。貧しい人、飢えた人、十字架を背負っている人はどこにでもいます。このような人々にイエス様が大いなる未来を約束されたことによって、この時すでに彼らの状況が逆転したのです。

 

心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

八福はルカによる福音書にも書かれています。6章20節にこう書いてあります。「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである。」イエス様は社会的に底辺にいる人々に声をかけるようにしておられます。マタイによる福音書では「心の」と付け加えることで、罪の責任による重荷を負って悪の道に迷い込んで、手に何も持たずに神様の御前に立っている人のことを指しているものと考えられます。このような人々に対して、イエス様は最高の報酬を約束しておられます。それは「今も未来も天の王国に入る」ということです。聖霊の賜物を受けることは、新しい人が生まれ、神様と共に永遠に生きることを意味するからです。

 

悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。

これは、イザヤ書61章2節を思い起こさせる言葉です。預言者イザヤは「メシアがいつか嘆き悲しむすべての人を慰めてくださる」と言っています。この約束はイエス様において実現しました。罪を犯した責任として神様から罰を受けることを恐れ自分の罪に苦しむ人々は安心することができます。このような人たちを神様は憐んでくださったからです。これはすでにこんにちにおいて慰めをもたらしてくれるものですが、将来、神様による統治が目に見えるものとなった時、この慰めは完全なものとなります。

 

義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる。

ルカによる福音書では、飢餓状態にある人にはっきりと焦点を当てているのに対して(ルカ6:21)、マタイによる福音書では「義に飢え渇く者は幸いである」と言っています。神様の王国は正義の御国です。神様の正義は人間の正義とは異なります。神様の正義は愛が特徴です。詩編119編123節によれば、義なるとは神様から見て罪がない、ということです。それゆえ、義に飢え渇く人は、罪による責任から解放されたいと強く願うのです。イエス様は、この願望が満たされることを約束しておられます。神様の恵みと罪の赦しに至らせてくださいます。そして、神様の平和の王国においては、罪による責任は完全に消し去られるのです。

 

憐れみ深い人々は、幸いである/その人たちは憐れみを受ける。

山上の説教のこの部分までは、道徳的な教えです。まず、私たちは苦難にある人々がいることを認識しなければいけません。そして、この認識に対応しなければなりません。苦難にある人々への憐れみと慈しみ、愛と思いやりに溢れた援助は、隣人を自分と同じく愛するという基本的な戒めの鍵です。これを最近では、共感と呼んでいます。共感に基づいて行動する人に対しては、必ず神様が憐れんでくださいます。この世の人生でも死後の人生でも、神様は罪人を憐れみ苦難から救ってくださるのです。

 

心の清い人々は、幸いである/その人たちは神を見る。

申命記6章5節にはこう書いてあります。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」これがイエス様の言われる心の清さです。清い心の持ち主は、この神様の戒めを完璧に実現させます。他人を傷つけるどころか、相手のために最善を尽くしたいと心から願います。このような人に対して、イエス様は「神様を見る」と約束しておられます。このようなことができる人は誰もいません。新しく造られることによってはじめて可能となります。当面はイエス様に御父を見ることになります。

 

平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。

これは先を見越した行動です。平和とは単に戦争がないことではありません。平和を造るには、人々の必要を見極め、それを真剣に受け止め、その必要を可能な限り満足させなければなりません。周囲の人々が幸福になり、満足できるようにする人は、必ず神の子という特権を得ます。力によって神様の国を実現しようとした革命家の中には、平和を造り出す者だと偽って自称していた人もいました。しかし、平和を造るとは、ただ平和に生きるだけでなく、人々の間に平和を造り出すことも意味するのです。

 

義のために迫害された人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。

この八福では、信仰のゆえに迫害される人々についても「幸いである」としています。注意していただきたいのは、自分自身の罪のために困難に直面したり敵愾心を持たれたりすることを指しているわけではありません。ここでは、神様の御旨に従って人生を歩むことによって受ける敵愾心のことです。迫害は弟子であることによる結果です。しかし、迫害を受けるには相応の価値があります。実際イエス様は、ご自分のために迫害される者たちにも、八福の一番目と同様に、「天の国はその人たちのもの」という最高の報酬を約束しておられるのです。これは、ここで挙げたすべての賜物の集大成です。これ以上すばらしい約束はありません。おめでとう!

原著: Katrin Löwen

https://nac.today/en/158033/1264466

nac.today: New Apostolic Church International

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