3 三位一体の神

134 イエスは何を中心に教えられましたか。


イエスは、神の御国を宣べ伝えることを中心に教えられました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15)。

135 「神の国」とはどういうことですか。


「神の国」とは、国の領土ではなく、政治支配による領域でもありません。「神の国」とは神が人類の中に臨在し、支配されていることを意味します。


イエス・キリストという人の中に、神の御子という「神の国」がすべての人々のところにおいでになったのです(ルカ17:21参照) 、未来においても深い意味を持ちます ― まず「小羊の婚礼」に始まり、新しい創造が行われ、それが永遠に続くのです(黙21:1-3参照)。


小羊の婚礼: 問566→以降を参照/平和の御国: 問575→以降を参照/新しい創造: 問581→を参照/「御国を来らせたまえ」: 問635→を参照

マタイによる福音書では、「神の国」という言葉を、「天の国」と同義で用いています。


「神の国」とは、人々の中で、神が臨在し、統治することです。神の国は、すでにイエスの時代に実現が可能でした。こんにちにおいても「神の国」は、キリストの教会におけるイエス・キリストの働きによって ― 言い換えれば、御言葉やサクラメントによって ― 実現しており、体感できます。


それだけでなく、未来における「神の国」を待ち望みます。この御国は「小羊の婚礼」という形で、平和の御国において、新しい創造の中で明らかとなります。

136 「悔い改める」とは、どういう意味ですか。


「悔い改める」とは、悪を排除し、神に向かうことです。悔い改める人には、神の御旨を実現させるために、考え方を変えようとする姿勢があります。

137 「福音」とは、どういう意味ですか。 


「福音」とは、「良きおとずれ」「良い知らせ」を意味します。福音は、神がイエス・キリストを通じて私たちに恵み、愛、和解をもたらして下さることを伝えるものです。

138 モーセの律法によれば、イエスはどのような立場にありますか。


モーセの律法は、イスラエルの人々が最優先に遵守すべき権威でした。モーセの律法を実行することは、人と神との間が適切な関係となるために必要な条件であると考えられていました。イエスは、モーセより御自分の方に優れた権威があることを明らかにされました。そしてモーセの律法を、「何よりも神を愛し、それから隣人を自分と同じくらいに愛しなさい」という一つの戒めに集約されました(マタ22:37-40参照)。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」 マタ5: 17


「イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(申6:5)。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18)。律法全体と預言者は、この二つの掟(おきて)に基づいている。』」 マタ22: 37-40

139 イエスが御自分の宣教活動において、最初になさったことの一つに、何がありますか。


イエスは弟子を選ばれました(マコ1:16以降参照)。それ以降、「自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ」るために、十二人を任命されました(マコ3:14参照)。

イエスの弟子たちは、言葉において行いにおいて、福音に従いました。

140 イエスはどのような奇跡を行われましたか。


神の御子イエスが行われた奇跡には、悪人を癒(いや)したり、悪霊を除いたり、死んだ人を蘇(よみがえ)らせたり、さらに自然現象の奇跡、食事を与える奇跡、収穫の奇跡といった様々なものがあります。

141 イエスはなぜ奇跡を行われたのですか。


イエスは、御自身を通じて、万能で慈愛深い神が、苦しむ人類のために尽くしておられることを示すために、奇跡を行われました。こうした奇跡は、神の御子の栄光と、御子による天来の権威を明らかにしています。

142 福音書では、病人の癒(いや)しを、どのように伝えていますか。


福音書によれば、イエスは目の見えない人、足の不自由な人、耳の聞こえない人、重い皮膚病の人を癒されました。こうした奇跡から、イエス・キリストが神としての特質を備えていることがわかります。イエスは、神がイスラエルの人々に「わたしはあなたをいやす主である」(出15:26)と言われた時と同じように、神としての役割を果たされたのです。こうした癒しの奇跡は、それに与(あずか)ったそれぞれの人たちの信仰と、密接に関係しました(例:ルカ18:35-43参照)。

143 イエスが悪霊を除かれたことについては、どのように伝えていますか。


福音書によれば、イエスは悪魔 ― 当時、悪魔は諸病の原因でもありました ― を排除したことによって、人々を癒されました。悪魔も、イエス・キリストが主であることに気づきました(マコ3:11参照)。

新約聖書では、『悪魔』は神に反発する悪霊という扱いをしています。古代世界では、悪魔は病気をもたらして人を支配しようとする存在でした。

144 死者を蘇(よみがえ)らせる奇跡については、どのように伝えていますか。


福音書では、イエスが亡くなった人を生き返らせた例として、三件挙げております。具体的には、ヤイロの娘(マタ9:18-26参照)、ナインの町に住むやもめの息子(ルカ7:12-15参照)、マリアとマルタの兄弟であるラザロです(ヨハ11:1-44参照)。


イエスが死者を蘇らせる奇跡を行ったことによって明らかになったことは、イエス・キリスト御自身も、死を乗り越える主であるということです。それと同時に、こうした奇跡は、死んでいった者たちもいつか復活して永遠の命を得られるという希望が持てることを示しています。

145 自然現象の奇跡について、福音書ではどのように伝えていますか。


イエスには、風や海を制する力がありました。風も海もイエスに「従順」なのです(マタ8:27参照)。イエスが嵐に対して、静まるようにお命じになると、風は止み、波は収まりました。このように、イエスは、御自身に自然を制する力があることをお示しになりました。


イエスが自然の力を制することができるということは、父なる神と同様に御子なる神も創造者であることを明白にしています(ヨハ1:1-3参照)。

146 食事を与える奇跡について、福音書ではどのように伝えていますか。


イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々の腹を満たしたという奇跡は、四福音書すべてに書かれています(例:マコ6:30-44参照)。さらに、マタイとマルコによる福音書には、四千人の人々に食事を与えたことが書かれています(マタ15:32-39参照; マコ8:1-9参照)。


これらの奇跡は、かつてイスラエルの民が砂漠を旅していた時に、神が食べ物(マナ)を与えられたを想起させます。さらに言えば、こうした奇跡は、聖餐を示唆(しさ)しています。

147 収穫の奇跡について、福音書ではどのように伝えていますか。


イエスは、非常に多くのこの世の収穫を人類にもたらすという奇跡も行っております。そうした奇跡の一つに、ペトロの大漁があります。漁師であったペトロは、一晩かけて漁をしていたにもかかわらず、一匹の魚も獲ることができませんでした。ところがイエスの言われた通りに、もう一度網を投げたところ、あまりにも多くの魚が網にかかり、網が破れそうになり、船は転覆(てんぷく)しそうになりました(ルカ5:1-11参照)。


カナの婚礼では、イエスは水をぶどう酒にされました(ヨハ2:1-11参照)。これも収穫の奇跡の一つであり、イエス・キリストが神であることを示すものです。

148 イエスはどのようにして、人々に教えを伝えられましたか。


イエスは人々に宣教されました。イエスによる最も有名な説教は「山上の説教<垂訓(すいくん)>」です。これはマタイによる福音書に記載されています。この「山上の説教」の冒頭には「八福(はちふく)」が述べられています。

八福
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」マタ 5: 3-11

149 イエスの「八福」とは何ですか。


イエスによる山上の説教で語られた「八福」は、マタイによる福音書に書かれています。ここでイエスは、御自身を通じて現実のものとなった「天の国」に、どうすれば共に与れるかを教えておられます。イエスは、この八福で書かれている生き方をする人々は「幸いである」と述べておられます。


天の国: 問135→を参照

150 イエスはどのような方法で、福音がわかるようにされましたか。 


イエスはしばしば説教の中で、たとえを用いて話されました。つまりたとえ話であります。たとえ話は、イエスの話を聞く人たちが理解しやすいように、彼らの日常生活を取り上げたものになっています。こうしたたとえを用いて、福音の中核部分を説明されました。


マタイ、マルコ、ルカの各福音書に、約40のたとえ話が書かれています。

「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通じて言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。』」 マタ13: 34-35

151 たとえ話を用いて説いている福音の項目としては、おもにどのようなものがありますか。


たとえ話の中でイエスが説かれたことの中でおもなものは、神の御国、隣人愛の戒め、心のあり方、人の子の来臨であります。


神の御国: 問135→の解説を参照/人の子: 問114→を参照

152 神の御国の始まりとその発展について、イエスはどのように解説されましたか。


イエスはこのことについて、からし種のたとえを用いて説明されました。これにより、神の御国が控えめな始まり方をして発展成長していく様子をお示しになりました。

「『天の国はからし種に似ている。[…] どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。』また、別のたとえをお話しになった。『天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」マタ13: 31-33

153 神の御国において非常に貴重なものが提供されることを、イエスはどのようにして説明されましたか。


イエス・キリストに隠されている富を知り、それに価値を見出し、それを得るためにすべてを放棄する人たちにとって、高価な真珠のたとえ話は説得力があります。また別の箇所で、イエスは次のように諭(さと)しておられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい…」(マタ6:33)。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」 マタ13: 44-46


「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 マタ6: 33

154 神の御国が愛に溢(あふ)れていることを、イエスはどのようにして説明されましたか。


見失った羊のたとえを用いて、たとえ見失ったように思われても、神はすべての人を助けようとして下さる、ということを説かれました。放蕩(ほうとう)息子のたとえ話は、神が罪人も愛しておられることを示しています。

「そこで、イエスは次のたとえを話された。『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』 」ルカ15: 3-7

155 隣人を愛しなさい、と説いているのは、どのたとえ話ですか。


最も素晴らしい戒めは、神を愛し、隣人を愛しなさい、という戒めであります。イエスは、善いサマリア人のたとえ話を用いて、ここでいう隣人が誰なのか、そして、隣人を愛するとは人の悩みを見て見ぬ振りをせずに助けなければいけないことだということを、説明されました。


二重の愛の掟: 問282→以降を参照

「イエスはお答えになった。『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」』」 ルカ10: 30-35

156 人の心の姿勢についてのたとえ話は、どのようなことを伝えていますか。


ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話が教えていることは、義とされるのは、自分の業績、財産、人格を誇示(こじ)する人ではなく、恵みを求めて謙虚な態度で神の御前に参(さん)じる人である、ということです。


仲間を赦さない家来のたとえ話は、神の恵みに与(あずか)った人は他人に対しても同じように恵みを示しなさい、ということを言おうとしています。神の愛の深さがわかる人なら、隣人と和解すべきであるという気持ちになります。

「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下(くだ)している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐(あわ)れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」ルカ18:9-14

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願った。その家来の主君は憐(あわ)れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、て行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人(ろうやくにん)に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。』」マタ18: 21-35

157 人の子がおいでになるというたとえ話を通じて、イエスは何をお示しになりましたか。


イエスは、人の子の来臨というたとえ話の中で、御自身の再臨について話されました。


マタイによる福音書24章37-39節で、イエス再臨の前の時代とノアの時代とを比較しておられます。ここでは、御自身が思いがけない時に突然おいでになることを明らかにしておられます。


賢い乙女と愚かな乙女のたとえ話でも、このことを教えています(マタ25:1-13参照)。このことから、私たちは注意して、主の再臨に備えるようにします。

「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」 マタ24: 37-39

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタ25:1-13

158 イエスは御自身のことを、どのようなたとえを用いて表現しておられますか。またそのたとえにはどのような意味がありますか。


ヨハネによる福音書には、イエスについて「たとえ」を用いて述べている箇所があります。そのたとえによって、イエスの本質についてわかりやすく描写しています。イエスは御自身について、「わたしは…」で始めて、「命のパン」(ヨハ6:35)、「世の光」(ヨハ8:12)、「[救いに至る]門」(ヨハ10:9)、「良い羊飼い」(ヨハ10:11)、「ぶどうの木」(ヨハ15:5)、「復活」(ヨハ12:25)、「真理であり、命」(ヨハ14:6)という、七つの明確な言葉で表現しておられます。


これらを総合すると、イエスお一人で父なる神に近づくことができる上に、イエスが救いの根源である、ということになります。

159 弟子たちの中で、イエスとの関係が特に近かったのは誰ですか。


イエスとの関係が密だったのは、十二使徒で、イエスも彼らに特別な信頼を寄せておられました。

  • 十二使徒以外の弟子たちはイエスのことが理解できず、イエスに従わなくなりましたが、十二使徒はイエスの許(もと)にとどまりました(ヨハ6:66-69参照)。
  • 聖餐を執(と)り行った時、イエスと一緒にいたのは、十二使徒だけでした(ルカ22:14以降参照)。
  • イエスは、使徒たちの足を洗うことによって、謙虚であることの模範を示されました(ヨハ13:4以降参照)。
  • ヨハネによる福音書13章-16章によれば、イエスは、御自分が死なれる前に、使徒たちに、別れの言葉を述べられました。そして聖霊が遣わされることを約束されたのも、使徒たちに対してでした。
  • イエスは使徒たちに、御自分の再臨を約束されました(ヨハ14:3参照)。
  • イエスは御自分が復活された後、使徒たちに御自身の姿を何度も示されました(使徒1:2-3参照)。
  • イエスは、天に昇られる前に、使徒たちに次のようなことをお命じになりました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタ28:19-20)。

「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」使徒1: 3

 

「[イエスは]食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。『わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。』」 

ヨハ13: 4-5, 15

160 イエス・キリストの受難が始まったのはいつですか。


イエス・キリストの受難が始まったのは、エルサレムにお入りになった時からです。「一行がエルサレムに近づい[…]たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。』[…] 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるよう』」(マコ11:1-9)。人々のこうした歓喜の中でも、彼らがすぐに心変わりし、御自分が十字架への道を歩まざるを得ないことを御存知でした。

イエスの苦しみを表す「受難」という語はラテン語で「苦しみ」を意味する『パッシオ』が語源です。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼(かんこ)の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」 ゼカ9: 9