11 キリスト教史概説
582 キリスト教徒による最初の会衆は、どのようにして誕生しましたか。
キリスト教徒の会衆は、ペンテコステの時に初めて誕生しました(使徒2:37以降参照)。この教会にはユダヤ人しかおりませんでした。その後、迫害を受けたため、信徒の多くはエルサレムから避難しました(使徒8:1; 11:19参照)。彼らは新しい環境の中で引き続き福音を宣教し、そこでも信仰が芽生えました。そのため教会はエルサレム以外の場所にもできました。
当初使徒たちは、福音をユダヤ人だけに伝えればよいのではないか、という考えで活動していました。しかし神は、福音が異邦人のためのものでもあることを、幻を通じて使徒ペトロに明らかにされました(使徒10, 11章参照)。
エルサレムで行われた使徒会議で、異邦人への宣教や、受洗した異邦人に対するモーセの律法の意義に関する問題点が明確にされました(使徒15:1-29参照)。この会議で下された判断は、最終的にキリスト教会が旧来のユダヤ教から脱却する要因となりました。
神は、御旨をお示しになる時に、その目的でお選びになった人物に対して、特別に「幻」を用いられることがあります。
異邦人に福音を宣べ伝えたのは、主に使徒パウロです。彼はそのために使徒バルナバを同行して、現在のトルコに該当する地域やギリシア、キプロス、最終的にイタリアにまで宣教活動を行いました。
使徒が活動したのは、紀元1世紀の終わりまでではないかと考えられています。これ以後、使徒職に就く者がいなくなる期間となりました。とはいえ使徒職そのものが無くなったわけではありません。19世紀になると、再び使徒職に就く人物が現れ、使徒職が再興されました。
587 初期の使徒がいなくなった後、聖霊の働きはどのような形で現れましたか。
旧約聖書と新約聖書に収められる正式な書巻(正典)が、聖霊によって定められました。
キリスト教の教義における根幹部分が、宗教会議[公会議]の場で、聖霊の働きによって制定されました。ここで制定された項目の中には、例えば、神が三位一体であるという教え、イエス・キリストが真の人であり真の神であること、そしてイエス・キリストの犠牲と復活が人類の救いや贖いにとって極めて重要であるという悟りがあります。
キリスト教が世界中に伝播したことも、数百年にわたる聖霊の働きのおかげでもあります。
589 紀元2世紀以後、キリスト教はどのようにして発展しましたか。
執事であったステファノに対する投石行為がきっかけとなって、迫害の嵐が吹き荒れました。多くのキリスト教徒がその信仰ゆえに殺され、殉教者(じゅんきょうしゃ)となりました。
こうした迫害や様々な妨害工作に遭いながらも、キリスト教はローマ帝国全土に広がりました。
殉教者: 問394→の解説を参照
590 初代の使徒から教わったことを、後世の人々に伝えたのは誰ですか。
使徒による最初の教えは伝承されていき、それが「使徒教父」によってさらに発展しました。使徒教父は教会の教師で、大きな影響力を持ちました。使徒教父の中には、ローマのクレメンス(?-100頃)、アンティオキアのイグナティウス(?-115)、スミルナの監督であったポリュカルポス(69頃-155頃)、ヒエラポリスのパピアス(70頃-130/140頃)がいました。キリスト教を異邦人やユダヤ人から守り、キリスト教の基本的な教えを保護したのは、この使徒教父たちの努力によるものです。
教会としてのあり方を決定づけた人物の一人が、アレクサンドリアのアタナシオス(295頃-373)です。彼の影響のもとで、325年にニカイア信条が制定されました。
「教父」とは、「使徒教父」の時代以後にキリスト教の基本原理を確立した学者たちを言います。教父の中には、ミラノのアンブロジウス(339-397)、ヒエロニムス(347-420)、ヒッポのアウグスティヌス(354-430)がいました。
592 キリスト教がローマ帝国の国教となったのはいつですか。
数度にわたる迫害が行われた後、313年、コンスタンティヌス1世はキリスト教徒に対して信教の自由を宣言しました。
381年、テオドシウス帝はキリスト教を国教とし、異教の神々の信仰を禁止しました。
「信教の自由」とは、自らが信念とする宗教や世界観を自由に告白したり実践したりできる状態のことを言います。
593 中世以前の時代において、キリスト教はどのようにして発展しましたか。
民族移動の時代(4-5世紀)、キリスト教はヨーロッパとアジアに勢力を拡大しました。
修道院制度は3世紀にエジプトで始まったものですが、キリスト教の伝播に大きな役割を果たしました。修道士たちの基本的義務の中に、キリストに倣って清貧な生活を送り、キリスト教を広めることがありました。中世においては、修道僧や修道女が、科学の分野で大きな功績を残し、農業や社会問題にも携わりました。
キリスト教は次第に、ヨーロッパの人々の生活を確立するようになっただけでなく、文化、政治、社会のあり方も決定づけるようになりました。
1054年、教会間の対立関係から、西方教会(ローマカトリック教会)と東方教会(正教会)に分裂しました。
修道院制度とは、あらゆる世俗的なことから隔絶して、生活全般を信仰のために捧げる生活を送る制度をいいます。男性も女性も「修道士(修道女)としての」生活に従事しました。
594 7世紀初頭において、キリスト教徒が直面した問題としては、他に何がありますか。
7世紀に入ると、アジア、アフリカ、またヨーロッパまでもが、新しい宗教と対峙(たいじ)することになります。それはイスラム教です。中東や北アフリカといった多くの地域で、キリスト教が信仰されなくなりました。
これが引き金となって戦争も起こりました。その一つが十字軍です。十字軍による戦争は、エルサレムやキリスト教の聖地を奪還する目的で、1095年から1270年にかけて行われました。
イスラム教は世界の主要な宗教の中で最も新しい宗教です。紀元7世紀にムハンマドによって開かれました。その教えは唯一神を信じることですが、三位一体の神を信じることは教えていません。イスラム教の教えでは、イエスは預言者と考えられています。イスラム教の聖典はコーランです。
十字軍: 当時パレスチナはイスラム教の支配下にあり、エルサレムも例外ではありませんでした。7世紀から13世紀にかけて、歴代の教皇はヨーロッパの君主たちに、この地域をキリスト教の支配に戻すように要請しました。この軍事による運動を「十字軍運動」と言い、これに参加した兵士は、キリストの名によるキリストの栄光のための遠征によるところから「十字軍」と呼ばれました。
595 教会改革への取り組みが行われるようになるまでに、どのような推移をたどりましたか。
中世は全体的に、教会の世俗化と、信仰や教義の軽視が加速した時代でした。これにより、福音のもたらす本来の姿が欠如するようになりました。
そうした理由から、教会を改革しようとする取り組みが増えました。修道院制度を維持したまま教会を改革しようという取り組みがあった一方で、フランスのピエール・ヴァルドー(1140-1218頃)や、イギリスの神学者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)、プラハ大学の学長だったヤン・フス(1369-1384)といった人たちは、自らの力による取り組みを始めました。彼らは世俗化した教会への批判という点で共通していました。彼らによってはじめられたり指示されたりした運動は、ヨーロッパの大部分に波及し、最終的に宗教改革へとつながりました。
宗教改革(ラテン語で「復元」「刷新」を意味するリフォルマーティオreformatioが語源)とは、ヨーロッパにおける宗教刷新運動であり、福音への回帰願望に基づくものです。
宗教改革はドイツの修道僧マルティン・ルター(1483-1346)と密接に関係しています。ルターは、教義の基本は専ら聖書に書かれているイエス・キリストについての証しである、としています。彼はヘブライ語やギリシア語で書かれていた聖書をドイツ語に翻訳したことにより、人々が聖書を読みやすくなるようにしました。
1534年、聖公会が独自に成立しました。
597 宗教改革を推進した人々の中で、特に有名な人は誰ですか。
ドイツのヴィッテンベルクで活動していたマルティン・ルターの他に、スイスのチューリッヒで活動したフルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)、スイスのジュネーブで独自の活動を展開していたジャン・カルヴァン(1509-1564)がおります。
598 ローマカトリック教会は、宗教改革にどう反応しましたか。
宗教改革に対抗して、(1545年に始まった)トリエント宗教会議[公会議]で教会の刷新を呼びかけ、対宗教改革運動の下地を整えました。その見返りとして教皇の権力が強められました。
『対宗教改革運動』とは、ローマカトリック教会による、宗教改革への対応を意味するものです。
599 プロテスタントとカトリックの対立は、どのような結果をもたらしましたか。
プロテスタントとカトリックが対立する中で、三十年戦争(1618-1648)が勃発しました。この三十年戦争の結果、教会に対する国家の影響力が強まりました。これ以降、人々の宗教は彼らを支配する領主によって決定することとなりました。
宗教改革の支持者は「プロテスタント」として知られるようになりました。
600 18世紀のヨーロッパにおけるキリスト教は、どのような状況でしたか。
18世紀のキリスト教はしばしば、万物の判断基準を人間の理性とする考え方(「啓蒙思想(けいもうしそう)」)と結びつくようになりました。これに対して、改革派教会内で敬虔主義(けいけんしゅぎ)という運動が起こり、勢力を伸ばし、影響力を持つようになりました。敬虔主義の特色は、熱心な聖書研究、社会との関わり、宣教活動などがありました。
「宣教」: 問393→の解説を参照
19世紀になると、貧困や無学のために信仰から遠のいてしまった人々を、再び福音に帰依(きえ)させようとする取り組みが行われるようになりました(「内国社会伝道」)。さらにヨーロッパ以外の国々、特にアフリカにおいてキリスト教の普及を進めるために、「国外宣教会」が設立されました。
602 19世紀のキリスト教において起こった重要な出来事は何ですか。
いわゆる「リバイバル運動」 ― 特にイングランドやアメリカのプロテスタントの中で展開されました ― は重要な出来事の一つでした。敬虔なキリスト教徒は「文化としてのキリスト教」からの決別と、生きたキリスト教の信仰への回帰を訴えました。福音を見つめ直そうという呼びかけには、しばしばキリスト再臨への希望を伴いました。
こうした歴史的背景において、神は使徒が再び活動するための準備を進めておられたのです。
603 19世紀における使徒職の再興は、どのようにして行われましたか。
1826年から1829年にかけて、敬虔な人々がヨハネの黙示録を共同で研究する目的で、イングランド南部のオルベリーで行われる会議のために集まっていました。この会議は、銀行家のヘンリー・ドラモンド(1786-1860)による招きで、スコットランド国教会の牧師であったエドワード・アーヴィング(1792-1834)と連携して行われたものです。この会議の参加者は、聖霊の働きとキリスト再臨に関する聖書の見解を明確にしたいと考えていました。
スコットランドに住む様々な教派の信徒たちも、聖霊のさらなる活動を待ち望んでいました。彼らの中で1830年、病気が癒やされたり、異言が語られたり、預言が行われたりする出来事が表面化し、広く知れ渡るところとなりました。
1832年の秋、ジョン・ベイト・カーディル(1802-1877)が聖霊によって使徒に召され、ヘンリー・ドラモンドによって任職されました。
1833年9月初旬、さらに十一名が、預言―特に預言者のオリヴァー・タプリン(1800-1862)による預言―を通じて、使徒に召されました。
604 カトリック使徒教会はどのようにして設立されましたか。
1835年、使徒たちは一年間オルベリーにこもり、集中討議を行いました。それが1837年の「大いなる証し」として実を結びました。これは、世俗のキリスト教霊的指導者すべてに向けて書かれた告白文書です。
使徒たちはこの文書を通じて、自分たちの指導の下に集まりキリスト再臨に備えるように、キリスト教徒に向けて訴えました。使徒たちは新しい教会の設立に興味を示さず、既存の教会を使徒の指導の下に結束させようと考えていました。
しかし使徒たちによるこの呼びかけを、多くのキリスト教徒は受け入れませんでした。彼ら使徒たちを本当の意味で信じた数少ないキリスト教徒たちは、結束して新しい教会を設立しました。それがカトリック使徒教会でした。
最初の御霊の証印は ― 当時は「使徒の按手(あんしゅ)」という名称でした ― 1847年に、イングランド、カナダ、ドイツで行われました。
606 一部の使徒が亡くなった時、どのような出来事がありましたか。
1855年、三人の使徒が亡くなりました。そこで預言者のエドワード・オリバー・タプリンとハインリヒ・ガイヤー(1818-1896)を通じて、使徒職の後継者が召されました。ところがこの召命は、残りの使徒たちに受け入れられませんでした。これ以降、使徒職は叙任されなくなりました。
この結果、1901年に最後の使徒であったフランシス・V・ウッドハウスが死去して以来、使徒は一人もいなくなり、それ以降、他の教役者も叙任されませんでした。