6.5 イエス・キリストの教会と宗教団体としての教会

イエス・キリストの教会が、唯一、神聖、公同、使徒的であれという戒めに対して、それを完全に実現できずにいることは、歴史の示すところである。その主な理由としては、使徒宣教職の全く活動しなかった時期が長く、19世紀から復興した使徒宣教職がまだ限られた効果しか上げられていないことである。「キリストの教会」は、文化的、社会的、歴史的相違もさることながら、同じ一つの福音、同じ一つの聖書を巡って、人間の行う解釈に実に様々な違いがあることによって、多くの教派が存在している。こうした相違があっても、キリストの教会は謎の存在ではなく、近寄りづらい存在でもない。キリストの教会であることが最も明確にわかるのは、使徒職がおり、生きている者にも故人にも三つのサクラメントが執 (と) り行われていて、御言葉の宣教が適切に行われていることである。主による贖いの御業 [1] が構築されているのは、このキリストの教会である。キリストの教会では、天の婚宴に備えて、キリストの花嫁の準備が行われている。キリストの教会 [2] である要件は、聖書の証しする通り、洗礼、イエス・キリストに関する一般的告白、それにイエス・キリストが唯一の主であり贖い主であることを信じることである。キリスト教で伝統的に言われていることによれば、バプテスマを受けてもイエスを信じずイエスが主であることも告白しない人たちと違い、真の信徒だけが見えない秘められた教会に近づくことができる(黙3:1)。

 

そもそも教会 ― 信仰、希望、愛を共にする場としての教会 ― を体験できるのは、バプテスマを受け、信仰に適 (かな) った生き方をし、イエスが主であることを公 (おおやけ) に言い広めている人たちだけである。それゆえキリストの教会では、花嫁の準備のために使徒職が活動している、つまり主による贖いの御業が行われているだけではない。隣人を積極的に愛し、イエス・キリストをはっきりと告白し、キリストについて行こうと真剣に努力しているのは、他教派でも行われていることである。礼拝の中で三位一体の神を崇 (あが) め称 (たた) えている教派もあるし、形式や程度は様々でも、唯一、神聖、行動、使徒的という点は、他教派にも見られる。

 

こんにち遣わされている新使徒教会の使徒たちが、主の再臨に備えてキリストの花嫁を整えている所では、不完全ながらも、必要なあらゆる手段を行使することができる。主による贖いの御業は、イエス・キリストの教会で完成されるのである。

[1]「主による贖いの御業」とは、すでに過去において行われた、イエスによる救いの働きを意味するのが一般的である。しかしここでは、教会の中でも使徒が活動している部分を指す。使徒は、初穂であるイエス・キリストの花嫁を整えるために役立つ救いの賜物を与える者たちである。

[2]世界教会協議会では、教会であることの共通要件として、「聖書に書かれていることに従い、イエス・キリストを神であり救い主であることを公に言い広めるため、父、御子、御霊なる唯一の神の栄光に向かって共に召されていることを実現させようと取り組んでいること」と定めている。

まとめ

キリストの教会が一致、神聖、公同、使徒的を完成できたことはこれまで一度もない。 (6.5→)

 

キリストの教会であることが最もはっきりわかる条件は、使徒職がおり、生きている者にも死んだ者にもサクラメントが執り行われ、御言葉が正しく宣べ伝えられていることである。キリストを天の婚宴に備えさせるために、主による贖いの業が行われているのも、このキリストの教会においてである。 (6.5→)

 

キリストの教会であることの要件は、洗礼が行われていることと、イエス・キリストを公に告白されていることと、イエス・キリストが信仰されていることである。教会が信仰と希望と愛によって集う場所であることは、洗礼を受け、信仰に適う生き方をしている者たちがいることによってわかる。それゆえ他教派でも、形式や程度はともかく、一致、神聖、公同、使徒的であれば、キリストの教会といえる。 (6.5→)