2023年12月1日 0:00:00 JST

12月にある宗教上の祝日は、普段の日曜礼拝の時と少し勝手が違います。この祝祭の時節は、クリスマスを予感させつつ礼拝の題目にも影響を与えます。

 

 

待降節(アドベント)になると、ろうそくに火が灯されるだけでなく、イエス様が人となられたこと〔擬人化・受肉〕に関連する約束や出来事によって、現代に明かりが灯されます。待降節の日曜日は、旧約聖書と新約聖書から主イエス様に焦点を当てた聖句を中心に扱います。待降節第四日曜日は、教会堂が唯一空席となります。〔日本の場合は社会背景に鑑み、この日(24日)にクリスマス記念礼拝を行います。〕

 

 

空約束はない

「神様は約束を守ってくださる。」これが待降節第一日曜礼拝の主題です。聖句は、昨年の待降節第一日曜日に主使徒が司式した礼拝からの引用です。「その日が来る――主の仰せ。私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす。その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる。彼は公正と正義をこの地に行う」(エレ331415)。神様はこのことを早くから約束され、且つ実現なさいました。イエス様の降誕、生涯、死、復活に至るまで寸分違わず、預言者エレミヤの預言通りに成就したのです。そしてイエス様御自身も、「聖霊を遣わす」という約束をされました。そして、これも成就しました。今、聖霊は教会で活動し、神様と同胞にふさわしく接するよう教え、まだ成就していない約束すなわちイエス様の再臨を思い起こさせてくださいます。

 

 

闇の中の光

「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった〔新共同訳「光を理解しなかった〕。」待降節第二日曜礼拝では、ヨハネによる福音書15節を考察します。光はイエス・キリストであり、闇とは罪に堕ちたこの世を象徴しています。この日の礼拝では、「誰も太陽に影響を及ぼすことができないように、イエス様という光も人間の制御が及ばない」ということを学びます。人々がイエス様を受け入れようと入れまいと、イエス様による光は闇を照らし続けます。イエス様という光を理解するためにはどうすればよいか、人々にこの光を理解してもらうにはどうすればよいか、この日の礼拝で考察します。

 

 

古いものと新しいものとの間

旧約最後の預言者は、バプテスマのヨハネです。ヨハネはイエス・キリストの待降もしくは来臨の道筋を整えるために、神様から選ばれ、遣わされました。待降節第三日曜礼拝で用いられる聖句は、昨年の待降節で主使徒が基調聖句として引用したもの→です。「一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである」(ヨハ167)。バプテスマのヨハネは人々に悔い改めを呼びかけました。こんにちにおいても待降節は悔い改めの時でもあります。ヨハネは救い主がおいでになり、契約が新しくなることを予告しました。そして自分自身が退くことに失望することなく、神様とその民に関する新しい歴史がイエス・キリストによって刻まれることを、大変喜びながら証ししました。

 

 

一週間の中でクリスマスに備える

今年は待降節の第四日曜日がクリスマス前の日曜日に当たるため、この日には礼拝が行われません。〔しかし日本では先述のように社会慣習に鑑み、この日にクリスマス礼拝が行われます。25日の礼拝はありません。〕この週の週中礼拝は「イエスが救いをもたらしてくださる」という主題で待降節を考察します。聖句は、ルカによる福音書1938節です。イエス様のエルサレム入城の場面です。「主の名によって来られる王に/祝福があるように。/天には平和/いと高き所には栄光があるように。」イエス様は王としてエルサレムにお入りになる一方で、このエルサレム入城はイエス様の肉体的霊的苦しみの序曲であることを示しています。週中礼拝では、神様との永遠の交わりを得るにはどうすればよいか――イエス・キリストを通してのみ得られるものですが――そしてそれが私たちの行動にどのように影響するかという問いに焦点を当てます。なぜなら、私たちは言動を通じてイエス様が私たちの主であり救い主であることを告白するからです。

 

 

クリスマス

天使たちが野に現れ、羊飼い、貧しい人々、地位の低い人々、社会から排除された人々を驚かせ、次のように言いました。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日〔きょう〕ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:1011)。この瞬間は、彼らにとってまるで神様の栄光を見たかのようであったに違いありません。この天使たちとの出会いが、新使徒教会で行われるクリスマス礼拝の基礎となっています。飼い葉桶で休んでおられる幼子イエス様は、貧弱に見えたかもしれませんが、羊飼いたちは天使が告げたことを信じ、その幼子を王として拝みました。神様の栄光がその場にあっても、それをまだ十分に悟れていないことがあります。例えば、イエス様が既に悪に勝利しておられても、その効果のすべてが明らかになっているわけではありません。神様の御国も同様で、イエス・キリストを通じてすでに私たちの中にありますが、完璧に明らかになるのは未来においてです。クリスマス礼拝では、こんにちから神様の栄光を体験するにはどうすればよいか、そしてそうすることによって神様との未来を待ち焦がれる気持ちがどのように強まるのかを中心に考察します。

 

原著: Katrin Löwen

https://nac.today/en/158033/1236028

nac.today: New Apostolic Church International

 

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