8 サクラメント
サクラメントとは、神の恵みによる基本的行為です。神は、この聖なる行為 ― これは人が人に対して行うものですが ― において、これに与(あずか)る者に対して、救いをお与えになります。
救い:問243→以降を参照
サクラメントによって、人類は救いを得ることができます。つまり、サクラメントに与(あずか)ることによって、神との命の交わりに入り、その交わりを保持することができます。
洗礼、御霊の証印、聖餐から成る三つのサクラメントを受けることによって、キリストが再臨される時に、一つに結び合わされる機会を得ます。
キリストの再臨:問550→以降を参照
サクラメントは、しるし、実体、施与者(せよしゃ)、信仰で構成されています。
475 サクラメントを構成する要素の一つである「しるし」とは何ですか。
「しるし」とは、サクラメントにおける見える要素をいいます。洗礼の場合は水です。聖餐の場合における「しるし」は、パンとぶどう酒です。御霊の証印では、使徒の按手(あんしゅ)がしるしです。
476 サクラメントの構成要素の一つである「実体」とは何ですか。
「実体」とは、救いをもたらす効果をいいます。洗礼の場合、「実体」とは、生まれながらに持っている罪が洗い流される効果と、洗礼を受けた者が神に近づくことができるという事実のことです。聖餐における「実体」とは、イエスの体と血に与ることです。御霊の証印における「実体」は、信徒が聖霊の賜物に与(あずか)ることです。
477 サクラメントの構成要素の一つである「施与者」は誰ですか。
「施与者(せよしゃ)」とは、サクラメントを執(と)り行う人物です。使徒がすべてのサクラメントを施(ほどこ)します。司祭職は、使徒の委託を受けて、洗礼と聖餐を施します。
478 サクラメントを構成している「信仰」にはどのような意義がありますか。
サクラメントが持つ効果を信じることによって、はじめて自(みずか)らの救いのためにサクラメントを受けることができます。
「証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。 」一ヨハ5: 7-8
480 サクラメントの執行を、イエスは誰に委託されましたか。
イエス・キリストはサクラメントの執行を、使徒たちに委託されました。
洗礼によって、人と神との関係に、根本的な変化が生じます。洗礼を受けると、生まれながらに持っている罪が洗い流されて、神と疎遠だった状態が払拭(ふっしょく)され、神に近くなります。そしてキリスト教徒となるのです。
洗礼を受けた者は、キリストを信じ、キリストを公(おおやけ)に言い広め、キリストの教会に所属します。
「生まれながらに持っている罪」とは、罪に堕落したことによって生じた神と離れた状態(神と疎遠な状態)をいいます。罪に堕(お)ちて以来、全人類に罪がのしかかっています(創3:20;詩51:7<新共同訳51:9>;ロマ5:12,18-19参照)。このように、人は誰でも、行動や思考ができるようになる前から罪人なのです。
堕罪(だざい):問88→以降を参照
水は生命に欠かせないものであり、ものをきれいにするのに使われます。洗礼において、水は人の内面をきれいにするための外面から見えるしるしです。
はい。ノアは箱舟に乗って、水の中を通って救われました。これは洗礼を表しています。ナアマンはヨルダン川の水に、七度体を浸しました(王下5:1-14参照)。これも、洗礼によって生まれながらに持っている罪が洗い流されることをたとえています。
「…むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに…その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである…。」一ペト3: 20-21<口語訳>
イエス・キリストが洗礼を受ける必要はありませんでしたが、洗礼者ヨハネによる洗礼を従順に受けられました。これにより、御自身を罪人たちと同じ身分にまで落とされたのでした。そして、どうすれば神の御前で正しくなれるのかをお示しになりました(マタ3:15参照)。
バプテスマのヨハネの洗礼は、悔い改めの洗礼にすぎませんでした。これは洗礼というサクラメントであり、三位一体の神の名において行われるものです。
486 洗礼について、イエスは弟子たちにどのように言われましたか。
イエスは、御自分が復活された後、弟子たちに大宣教令を告げられました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、…」(マタ28:19)。そのため洗礼は使徒の職務の一つです。
新約聖書において「バプテスマ」という場合、二つに分けて使われることがあります。水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマの二つです(使徒8:14以降参照)。水のバプテスマと御霊のバプテスマは密接に関連しています。
「彼らに、『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。パウロが、『それなら、どんな洗礼を受けたのですか』と言うと、『ヨハネの洗礼です』と言った。そこで、パウロは言った。『ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。』人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。」使徒19: 2-6
洗礼は、誰でも受けることができます。洗礼を受けるためには、イエス・キリストと、キリストの福音を信じることが条件です。
洗礼は、水を用いて、父、御子、御霊なる神の名において施(ほどこ)します。
洗礼に用いる水は、三位一体の名によって聖別します。そして洗礼を授ける教役者が、聖別された水を用いて、「父、御子、御霊なる神の御名によって、あなたに洗礼を授けます」と言いながら、受洗者の額に三回十字を切ります。
洗礼が、父、御子、御霊なる神の名によって施されると(「典礼」)、その洗礼は有効となり、しかるべき効果をもたらします。
「典礼」を意味する英語のライトriteは、「正しい形式による」「慣習に則した」という意味を表すラテン語が語源です。
イエスは次のように言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マコ10:14)。つまり、子供も神の祝福に与(あずか)ることができる、ということです。このことはサクラメント全般に当てはまります。
新約聖書は、家族全員が洗礼を受けたことについて証しをしています。「…自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」(使徒16:33;16:15も参照)。家族の中には、子供も含まれています。この時からキリスト教で、幼児洗礼の慣行が始まりました。
一方、子供が洗礼を受けた場合、イエス・キリストを信じるという告白を、その子に代わって保護者が行います。さらに保護者は、その子への宗教教育を、福音という意味において施(ほどこ)す責任を負います。
「会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。」
使徒18: 8
洗礼によって、神と隔絶された生活が終わり、キリストにある生活が始まります。罪と戦うための力が与えられます。
三位一体の名において行われる洗礼は、キリスト教徒にとって必須要素です。新使徒教会で洗礼を受けると、定期的に聖餐に与る資格を得ます。
「三位一体」(ラテン語で「トリニタス」)とは、神が三位一体であることを表しています。三位一体の名において洗礼を受けるということは、三位一体なる神、すなわち父、御子、御霊なる神の御名において洗礼を受けるということです。
洗礼と御霊の証印は、別々のサクラメントですが、密接に関連しています。この二つのサクラメントを受けることによって、水と聖霊によって再び生まれます。その過程で、洗礼が先に行われ、その後に御霊の証印が行われます。
水と御霊とによる再生:問528→以降を参照
天に昇られた御子は、洗礼を授けなさい、と使徒たちに命じられました(マタ28:18-20参照)。新使徒教会において、使徒はその権限を司祭職にも与えております。
「晩餐」という語は、イエス・キリストがこのサクラメントを制定された時の状況を表しています。イエス・キリストは十字架に磔にされる前日の晩、使徒たちと一緒に食卓を囲み、過越祭を祝われました。
イスラエルの民は、エジプトから脱出する前日の晩、神の御指示に従って、最初の過越祭を執(と)り行い、そのための食事として、汚れのない小羊を屠殺し、その肉と、酵母の入っていないパンを用意しました。神は、エジプトからの解放を記念するために、年に一度この過越祭を執り行うように命じられました。
495 聖餐を表すものとして、ほかにどのような表現が使われていますか。
聖餐は「ユーカリスト」とも言います。これは「感謝を献げる」という意味のギリシア語が語源です。他には「主の晩餐」「パンを裂く」と言います。
497 新約聖書の中で、聖餐について証しをしている箇所は他にありますか。
はい、コリントの信徒への手紙一11章23-26節に次のように書かれています。「…主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
この聖書の言葉は、聖餐を聖別する典礼文の基礎になっています。
『聖別』は、パンとぶどう酒を地上の物という概念を超越する行為であり、寄進や浄化を意味します(「聖別」についての解説は問503→を参照)。
498 聖餐で使われるパンとぶどう酒には、どのような意味がありますか。
聖餐を執り行うためには、パンとぶどう酒が両方必要です。パンは、ぶどう酒同様、人が生きていくための栄養を表しています。イスラエルではそれに加えて、ぶどう酒は喜びと将来の救いの象徴です。
ここでいう『象徴』とは、「紋章」「証明」「特徴」を意味するギリシア語です。
聖餐は記念の食事です。聖餐によって、イエス・キリストの死が常に有効な、無類の出来事であることを確認します。イエス・キリストは使徒たちに「わたしの記念としてこのように行いなさい」と仰せになり、聖餐の執行を委ねられました(ルカ22:19)。
500 聖餐に与(あずか)る人は、どのような告白をしますか。
聖餐に与ることによって、イエス・キリストの死と、復活と、再臨を信じることを告白します。新使徒教会員で定期的に聖餐に与る場合は、それに加えて、生きた使徒がこんにちにおいて活動していることを告白します。その点で、聖餐は告白の食事でもあります。