8 サクラメント

501 聖餐が交わりの食事であるというのは、どういうことですか。


聖餐において、イエス・キリストはまず使徒たちと交わりを持たれます。次に信徒たちと交わりを持たれます。さらに聖餐において、信徒同士が交わりを持ちます。

502 聖餐と、未来におとずれる天の「婚宴」とは関係がありますか。


はい。聖餐は、未来におとずれる天の「婚宴」をも示唆しています。このように聖餐には、終末論的性格も持ち合わせているのです。


イエスは使徒たちを囲んで聖餐を制定された時、次のように仰せになりました。「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)。


花嫁の会衆とイエス・キリストが再び一つに結ばれるまで、聖餐を通じて、会衆は主と緊密な交わりを体験します。

 

天の婚礼:問251→, 562→以降を参照

503 ウエハースが聖別されると、どのようなことが起こりますか。


聖別されることによって、イエス・キリストの体と血が生じます。


聖別することで、パンとぶどう酒の成分が変化するわけではありません。言い換えれば、パンとぶどう酒が何かに変わるわけではないということです。パンとぶどう酒に、イエス・キリストの体と血の成分が加わるということです。これを『実体共存』といいます。


聖餐において、パンとぶどう酒は、ただイエス・キリストの体と血を象徴としているだけではありません。聖別された後は、実際にイエス・キリストの体と血そのものになります。


象徴:問498→の解説を参照

『聖別』を意味する英語のconsecrationは、「寄進する」「清める」を意味するラテン語が語源です。パンとぶどう酒を聖餐のために聖別する時には、「寄進」の意味で用いられます。


『成分』を意味する英語のsubstanceは、「本質」「構成」「組み立て」を意味するラテン語が語源です。つまりこの語は、構成しているものが何かを表しています。

504 イエス・キリストの犠牲は、聖餐において、見える形で示されていますか。


はい。聖餐は、イエス・キリストの犠牲を見える形で示しています。しかし、イエス・キリストの犠牲が繰り返されるわけではありません。「ただ一度」献げられた「唯一」のものです(ヘブ10:10, 14)。

505 礼拝ごとに聖餐が行われるのはなぜですか。


聖餐は、洗礼や御霊の証印と異なり、イエス・キリストとの命の交わりによって人の信仰を維持するため、礼拝ごとに執(と)り行われます。そうすることで、イエスの本質を取り込みます。

506 聖別されたウエハースによって、イエス・キリストの体と血はどのくらいの間、存在し続けますか。


聖別されたウエハースは、それが受ける側に届くまで、キリストの体と血が存在し続けます。

507 罪の赦しと聖餐との間には、どのような関係がありますか。


罪の赦しは聖餐と密接に関係しています。両者ともイエス・キリストの犠牲に基づいているためです。


しかし、聖餐が執(と)り行われたと同時に、罪が赦されるわけではありません。罪を赦すのは、聖餐にふさわしく与(あずか)るためです。罪をきれいにした状態で、聖餐に与るのです。

508 イエス・キリストは聖餐の執行を、誰に委託されましたか。


イエス・キリストは、聖餐を使徒たちの中で制定され、聖餐の執行も使徒たちに委ねられました。使徒たちや使徒から権限を受けている司祭職が活動していれば、聖餐が持つすべての特質が必ず存在します。

509 聖餐のためのを聖別の言葉は、どのようなものですか。


聖餐を聖別するために、教役者はコリントの信徒への手紙一11章23節以降及びマタイによる福音書26章26節以降の言葉に基づく以下の典礼文を宣言します:
「父、御子、御霊なる神の御名によって、聖餐のために、パンとぶどう酒を聖別いたします。そしてこのパンとぶどう酒にひとたび捧げられた、永久(とわ)に有効なるイエス・キリストの犠牲を据えます。主はパンとぶどう酒を手に取られ、感謝を捧げてこう言われました。『これはあなたがたのために与えられる、私の体、これは多くの人の罪の赦しのために流される私の血、新しい契約の血です。私を記念してこれを食べ(て)、飲みなさい。』このパンを食べ、この杯(さかずき)を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。アーメン。」

510 礼拝の中で、聖餐はどのように執(と)り行いますか。


まず、ウエハースを聖別します。権限を受けた教役者が、蓋を開けた聖杯または聖体皿の上に両手を広げて、聖別の言葉を述べると、ウエハースが聖別されます。


そして教役者と会衆は、ぶどう酒を垂らしたウエハースの形で、イエス・キリストの体と血を受け取ります。その際「これはあなたに与えられた、イエスの体と血です」という宣言を受けます。

511 聖餐にふさわしく与(あずか)るための、必要な条件は何ですか。


事前に罪の赦しの宣言を受けることに加えて、イエス・キリストとその犠牲の業を信じることが必要条件です。


罪の赦し:問415→, 507→, 629→, 644→以降を参照

512 聖餐にはどのような効果がありますか。


聖餐を通じて、イエス・キリストと緊密な交わりを持つことができます。聖餐によって、御子の本質や強さが与えられます。また、成長してイエス・キリストのようになるため、信徒同士の一致が促進されます。ですから聖餐は、キリストの再臨に備えるためのものとして、重要な手段なのです。

「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」 一コリ10:17

513 聖餐に与(あずか)る資格があるのは、誰ですか。


新使徒教会で受洗した人、御霊の証印を受けた人、受洗認証を受けた人は、定期的に聖餐に与ることができます。


適切に(典礼として)受洗したキリスト教徒も、ゲストとして聖餐に参加することができます。


洗礼:問404→, 481→以降を参照 / 『典礼』:問488→の解説を参照 / 御霊の証印:問404→, 515→以降を参照 / 受洗認証:問662→, 669→を参照

514 他教派の教会で聖餐を受けることには、どのような意味がありますか。


聖餐に含まれている重要な要素は、他教派の教会で執(と)り行われる聖餐にも存在します。やはり死と復活を、感謝と信仰をもって記念します。しかし、他教派の教会で定期的に聖餐に与(あずか)ることは、基本的にその教派の教えを告白していることになるということを、新使徒教会の信徒は認識する必要があります。

515 御霊の証印とは何ですか。


御霊の証印とは、使徒の按手(あんしゅ)と祈りを通じて聖霊の賜物を受けるというサクラメントです。御霊の証印によって初穂として召され、神の子となります。


初穂:問428→, 530→を参照 / 神の子:問530→の解説を参照

516 新約聖書の書簡の中で「証印」とはどういう意味ですか。


新約聖書に属すいくつかの書簡[手紙]の中で、「証印」という表現があります。これは聖霊という賜物を与えることを意味します。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました」(二コリ1:21-22)。


「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(エフェ1:13)。


「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」(エフェ4:30)。

517 旧約聖書の時代に、聖霊は活動しておられましたか。


はい。聖霊は三位一体なる神の一位格として、父、御子と同様に永遠の太古より活動しておられました。旧約の時代、聖霊は、神から選ばれた人々に、それぞれ特定の職務を遂行されました。


旧約と新約:問175→を参照

「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降(くだ)るようになった。」 

サム上16:13

「御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」 詩51:11<新共同訳51:13>

518 新約聖書で言及している聖霊の注ぎは、旧約聖書でも触れていますか。


はい。旧約聖書には、神の御霊が多くの人々に注がれることを示唆(しさ)する記述がいくつもあります(例:エゼ36:27)。中でもヨエル書2章28-29節[新共同訳3章1-2節]の記述は重要です。「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」(使徒2:15以降も参照)。

519 聖霊が注がれることを、イエスは約束されましたか。


はい。イエスは折あるごとに、聖霊が注がれることを、使徒たちに約束しておられました。例えば、ある時はこう言われました「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(ヨハ15:26)。

520 聖霊の注がれる約束はいつ成就しましたか。


この約束が成就したのは、ペンテコステ[五旬祭]の日で、場所はエルサレムでした。この日、聖霊が使徒や弟子たちの上に注がれました。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」 使徒2: 1-4

521 イエスが聖霊による油注ぎを受けられたのは、いつですか。


イエスが洗礼を受けられると、聖霊が降りました。バプテスマのヨハネは、次のように証ししています。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハ1:32)。この出来事は「油注ぎ」といえます。

 

イエスの受洗: 問129→以降を参照

「朽(く)ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 ヨハ6: 27

522 イエスが洗礼を受けられ、その次に聖霊による油注ぎを受けられたことに、どのような意味がありますか。


バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後に、聖霊が降(くだ)ったことは、洗礼と御霊の証印という二つのサクラメントを表しています。


イエスが聖霊の油注ぎを受けられたことは、イエスがまさにメシアであるということです。油注ぎは御霊の証印を表しています。また使徒言行録10章37-38節の言葉も、この油注ぎを指しています。「あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」

すでに旧約の時代から、特定の任務を行う際には、油注ぎによる聖別を受けていました。預言者、国王、祭司の任に就く時には、油注ぎを受けました。問111→, 問112→「メシア」(=「油注がれた者」)の項も参照。

523 洗礼を受けてから聖霊という賜物に与るようになったきっかけは何ですか。


ペンテコステの時に使徒ペトロが説教を行うと、それを聞いた人々は、自分たちのすべきことをペトロに尋ねました。そこでペトロは次のように答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒2:38)。

524 御霊の証印について、使徒言行録にはどのように書かれていますか。


使徒言行録8章14節以降には、御霊の証印を示唆する重要な記述があります。「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降(くだ)っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」


聖書が証しするところによれば、御霊の証印は使徒職だけが執り行います。このことは使徒言行録8章18節にも書かれています。シモンは魔術使いでしたが、信じるようになり、洗礼を受けました(使徒8:9, 11以降参照)。そして「使徒たちが手を置くことで、霊が与えられるのを見」ました。


この時以来、洗礼と御霊の証印とは、はっきりと区別されています。似たような出来事は使徒言行録19章1-6節にも書かれています。エフェソには、ヨハネから悔い改めの洗礼しか受けていない弟子たちがおりました。彼らはイエスを信じるようになり、まず、主イエスの名において洗礼を受けました。その次に、使徒を通じて聖霊の賜物を授かりました。「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り[…]。」


悔い改めの洗礼:問485→を参照

525 御霊の証印はどのように施与(せよ)されますか。


御霊の証印というサクラメントは、使徒が父、御子、御霊なる御名によって聖霊の賜物を与える時に、施(ほどこ)します。その際、使徒は受洗者の前頭部に手を置き、祈りを捧げます。

526 御霊の証印というサクラメントを受けるために必要な条件は何ですか。


御霊の証印を受けるためには、三位一体なる神とイエス・キリストから遣わされている使徒たちを信じることが必要条件です。さらに、適正に洗礼を受けていることが前提です。みずからの信仰を告白し、キリストに従うことを誓約しなければなりません。

 

「適正な」(典礼):問488→の解説を参照

527 御霊の証印を受けることができるのは、誰ですか。


必要条件を満たしている人なら、誰でも受けることができます。このサクラメントは、大人にも子供にも施与されます。子供が御霊の証印を受ける際は、宗教教育に責任を持つ両親または保護者が、子どもに代わって信仰を告白しなければなりません。また、新使徒教会の信仰によって子どもを養育するという誓いを立てなければなりません。

528 「水と御霊とによる再生」とは、どういう意味ですか。


洗礼と御霊の証印という二つのサクラメントによって、「水と御霊とによる再生」を構成しています。この二つのサクラメントによって、神は「新しい被造物」 ― 神からの生命 ― を創造されます。

「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』」ヨハ3:5

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」二コリ5:17

529 御霊の証印と、水と御霊とによる再生との間には、どのような関係がありますか。


御霊の証印は、水と御霊とによる再生の一部であります。神は、洗礼からお始めになったことを、この御霊の証印によって完成されます。聖霊なる神によって、人は新しくなります[人の新生]。このように、聖霊は新しい被造物をもたらすお方なのです。


洗礼:問404→, 481→以降を参照

530 御霊の証印には、どのような効果がありますか。


御霊の証印によって、絶えず聖霊に満ち溢(あふ)れます。神は御自身の力、命、愛を人類に与えて下さいます。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ロマ5:5)。


御霊の証印を受けた段階で、神の財産となります。神の御霊が内面に宿り続けるのです(ロマ8:9参照)。


御霊の証印を受けた人類は、神の子としての身分を得、初穂として召されております。つまり、再生には、神の子になるという現在における効果と、初穂になるという未来における効果とがあります。


神の子となった信徒は神の相続人、しかもキリストとの共同相続人であります。御霊の証印によって人の内面で活動する「神の子とする霊」は、今や自信をもって「アッバ、父よ」と呼ぶのです。


御霊の証印を受けた信徒は、聖霊が活動できるようにします。そうすれば、天来の徳が現れます。これを「霊の結ぶ実」といいます(ガラ5:22参照)。


初穂:問428→を参照

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。…」ガラ5:22-23

「あなたがたは、[…]神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。」ロマ8:15-17

「神の子」という表現には様々な側面があります。

  • 全人類が神の子であるのは、人は神によって創られたものであり、全能なる神を「父」と呼ぶことができるからです。
  • 旧約聖書の時代、神はイスラエルの民を、父親のように世話をされました。そのため神は彼らを「わたしの子、わたしの長子」と言われました(出4:22-23参照)。このようにイスラエルは神の子との関係を、子という形で享受しました。イエスがユダヤ人に向かって、山上の説教をなさった時は、神のことを「天の父よ」と言われました。
  • 私たちキリスト教徒は、「主の祈り」をいただいております。この祈りの中で私たちは、神に向かって自信をもって「我らの父よ」と呼びかけます。
  • さらに「神の子である」ということは、キリストが再びおいでになるまでに、人類がすべてのサクラメントを受け、信じて、ふさわしい生活をしている状態で神の御前に立っていることを表しています。水と御霊とによって再び生まれることによって、神の子となります。再生を果たした信徒は、「神の子」として、いと高きお方の後継者となる約束をいただきます。