531 死後の生命は存在しますか。


はい。人は物質的な存在であると同時に、霊的な存在でもあり、体、魂、霊という三つの独立した存在で構成されています。


人の身体は滅びるものであり、はかない存在です。土から取られ、土に帰るのです(創3:19参照)。それに対して、魂と霊は、身体的に死んだ後も生き続け、不滅です。人を人たらしめているも の― つまり人の本質と、人を構成しているものと、人が体験したり、感じたり、信じたり、考えたりしてきたこと ― は、身体的に死んだ後も存在し続けるのです。

「神は人間を不滅な者として創造し、/御自分の本性の似姿として造られた。」知2:23

532 死とは何ですか。


身体が死ぬことと霊が死ぬこととは違います。身体の死は、この世の生命が終わることを意味します。身体的に死ぬと、魂と霊は身体から離れます。霊の死は、人が神と離れることを意味します。


聖書に書かれている「第二の死」とは(黙20:6;21:8)、最後の審判の後に神から離れてしまうことです。


最後の審判:問579→以降を参照

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」ロマ6:23

533 「死」について、聖書は他にどのように捉(とら)えていますか。


聖書では、神に反発する力に対しても「死」と表現しています。この力は身体の生命も霊の生命も破滅させようとしています。そこでヨハネの黙示録では、死を一人の人のように表現しています。「そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた」(黙6:8)。

534 死に打ち勝つ力があるのは誰ですか。


三位一体なる神は、生と死を支配しておられます。イエス・キリストは、御自分が復活されたことによって、死を克服されました。これにより永遠の生命が得られる機会を、人類に与えて下さいました。「わたしたちの救主キリスト・イエス…は死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである」(二テモ1:10[口語訳])。

535 イエス・キリストが復活されたことには、どのような意味がありますか。


イエス・キリストの復活は、死んだ者たちが復活するための基礎です。キリストが復活されたのですから、死んだ者たちも復活します。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」(ダニ12:2)。

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」

一コリ15:51―52

536 聖書に、死後の生命に関する記述はありますか。


身体が死んだ後の生命の存在については、すでに旧約聖書の中で暗示されております。新約聖書には、数か所で証しされています。たとえばペトロの手紙一3章19-20節には次のように書かれています。「そして、霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」

537 人は身体的に死んだ後、どこへ行きますか。


死んだ人の魂と霊は、死者のいる領域に入ります。その領域を「陰府[黄泉](よみ)」といいます。

538 「陰府」とはどういう意味ですか。


一般的に「陰府」とは、「黄泉」とも書きますが、物質的世界の外にあるあらゆる領域、事象、状態を表します。狭い意味では、死者の領域を指します。(ヘブライ語:シェオル、ギリシア語:ハデス)

539 死んだ人は、再び人になりますか。 


いいえ。いわゆる輪廻転生(りんねてんしょう)の考え方は、人であれ、動植物であれ、聖書の記述や福音の内容と矛盾します。「また、人間にはただ一度死ぬこと[…]が定まっているように<、…>」(ヘブ9:27)。

『輪廻転生』とは、人が様々な形で地上に繰り返し存在することです。様々な考え方がありますが、いずれもキリスト教とは相容れません。

540 私たちが故人とつながることはできますか。


故人を覚え、故人のために祈ることによって、つながることができます。


降霊術やチャネリングによって故人とのつながりを試みることは、神によって禁止されており、罪となります。「あなたの間に、[…]口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる」(申18:10-12)。

541 陰府の領域にいる魂は、どのような状態ですか。


陰府の領域では、神と近いところにいる魂もいれば、神と遠く離れたところにいる魂もいます。人の魂は、身体的な死にざまによって変わることは一切ありません。地上だけではなく、陰府においても、信じているかそうでないか、和解しているかそうでないか、愛していたか憎んでいたかによって決まります。


陰府にいる魂の状態については、イエスが説かれた金持ちとラザロのたとえ話にも述べられています(ルカ16:19-31参照)。この中でイエスは、慰めの場所と苦しみの場所があることを説かれました。陰府にいる者は、自分の状態を認識することができます。苦しみにある者は、助けを希望することができます。

542 「キリストに結ばれて死んだ人たち」とは誰ですか。


テサロニケの信徒への手紙一4章16節に「キリストに結ばれて死んだ人たち」という記述があります。この故人たちは、水と聖霊によって再び生まれ、キリストの再臨の備えを受けている者たちです。彼らは主の会衆に属し、神の御前で義とされている状態にあります。恵みと信仰によって、神の御前で義とされます。


水と御霊とによる再生:問528→以降を参照

「神に従う人の魂は神の手で守られ、/もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、/この世からの旅立ちは旅立ちはい、自分たちからの離別は破滅に見えた。ところが彼らは平和のうちにいる。」知3:1―3

543 陰府にいる魂の状態を変えることはできますか。


はい。キリストが犠牲となられたことによって、陰府にいる魂の状態を改善することが可能となりました。


イエス・キリストは亡くなられた後、死者のいる領域に入り、そこで福音を宣べ伝えられました。福音を宣べ伝えたということは、信仰によってそれを受け入れている者たちに、状態が変わる可能性があるということです。


ですから肉体が死んでも、救いを得ることはできるのです。


救い:問243→以降, 546→を参照

544 どうすれば、陰府にいる魂の状態を変えることができますか。


陰府にいる魂で、福音を一度も聞いたことがなく、罪が赦されたこともなく、サクラメントも受けたことがない者たちは、神から遠い状態にあります。この状態から抜け出すためには、イエス・キリストとその犠牲の業を信じてサクラメントに与(あずか)るしかありません。

545 故人の救済に関して、聖書ではどのように述べていますか。


マカバイ記二12章に、偶像に仕え戦死した人々の話が書かれています。彼らの仲間たちは、罪深い状態にある同僚が救済を受けられるように、祈りを捧げました。そしていけにえにする動物を買い、それを償いとして備えるために、金銭を集めました。


故人にサクラメントを施(ほどこ)す根拠は、コリントの信徒への手紙一15章29節に書かれています。コリントでは、この世にいる人々が死者のために洗礼を受けていました。これが、近代以降の使徒たちにも応用され、こんにち故人のための特別礼拝が執り行われるようになりました。

546 故人が救いを得られるように、私たちができることはありますか。


はい。祈りを通じて、贖われていない魂のために執(と)り成し、彼らを助けて下さるように主に願うことができます。同様に、こうした魂がイエス・キリストを信じるようになり、神が授けようとしておられる救いを、彼らが胸襟(きょうきん)を開いて受け入れてくれるように、祈りを捧げることができます。


キリストによって生きている人々とキリストによって死んだ者たちは、同じ一つの群れを成しています。ですから彼らはこの世において、あるいは陰府において、キリストの御心によって働きます。言い換えれば、贖われていない者たちのために執り成すのです。


しかし、贖いそのものは、イエス・キリストによってのみ実現します。


贖い:問215→以降を参照 / 救い:問243→, 248→以降を参照

547 故人はどのような方法で救いに与りますか。


イエス・キリストは、生も死も支配される主であります。すべての人が救われることは、神の御旨です(一テモ2:4-6参照)。これは説教、サクラメント、罪の赦しを通じて行われます。この救いに与るためには、必ずイエス・キリストを信じなければなりません。このことは故人も存命者も同じです。


陰府にも福音を宣べ伝えなければならないということは、ペトロの手紙一4章6節に明記されています。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」

「神は、その独(ひと)り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

ヨハ3:16

548 故人への救いはどのようにして、また誰によって、もたらされますか。


洗礼、御霊の証印、聖餐という目に見える一つ一つの行為を、使徒が存命者に行うと、これらが陰府にいる者たちに施(ほどこ)されます。ただしここで行われる救いの効果は、その存命者に対してではなく、陰府にいる故人にもたらされます。


イエス・キリストがこの世で犠牲となられたように、救いもこの世で使徒を通じて与えられます。


洗礼:問481→以降を参照 / 聖餐:問494→以降を参照 / 御霊の証印:問515→以降を参照