3 三位一体の神
神は霊的であり、完全なお方、そして完全に独立した存在です。神は永遠で、初めも終わりもありません。父、御子、聖霊が唯一の神です。
「父、御子、御霊」という時は、それぞれ三つの神々がおられるということではなく、お一人の神である三つの位格を表します。
神について説明し尽くすことは、人間にはできません。しかし、神の特徴について、その一部についてはわかっています。それは、お一人の神(唯一神)、聖なるお方、全能なるお方、永遠なるお方、慈愛深いお方、恵み深いお方、義なるお方、完全なるお方である、ということです。
神は唯一であるということです。旧約聖書でも新約聖書でも、基本として告白していることは、お一人である神を信じることであり、それ故キリスト教の信仰の基本でもあります。
『一神論』とは、神がお一人だけであるという教えをいいます。一神教には、キリスト教の他にユダヤ教やイスラム教があります。
「イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。『わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。』」イザ44:6
「…イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。」 マコ 12:29
聖であること[聖性]は、神の本質、存在、働きの一部です。聖とは、威厳と、不可侵と、世俗との別離とを併せ持っていることです。神の御言葉、神の御旨も同様に聖なるものです。
神の聖は、御自身の啓示される場所を清めます。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆(おお)う。 」イザ6:3
神は何でもおできになります。神に不可能なことはありません。神の御旨や働きは、誰も制限することができません。
神が全能であることは、天地創造が明快に示しています。すべては、神の言葉だけで創られたのです。存在するすべてのものは―人の目で見えるものも見えないものも―何も無いところから神がお創りになったのです。新しい創造も、神の万能性によって行われることでしょう。
神が万能であるということは、神が全知のお方であり、遍在(へんざい)のお方でもあるということです。
新しい創造: 問581→を参照
「イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」 ルカ18:27
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」 ヘブ11:3
「山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。」詩90:2
すでに旧約の時代から、神はイスラエルの人々をお選びになり、彼らをエジプトによる奴隷状態から解放されたことによって、慈愛深いお方であることが示されてきました。神は、すべての人が救われるように、御子をお遣わしになり、全人類に御自分の慈愛深さを示されました。
使徒ヨハネは次のように書いています、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内(うち)にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(一ヨハ4:16)
「遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。」 エレ31:3
「神は、その独(ひと)り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハ3:16
神は、憐れみ、恵み、忍耐、慈しみをもって、人類に接して下さいます(詩103:8)。神が恵み深いお方であるということは、何よりも、罪に束縛されている人類を受け入れて、罪を赦して下さるという事実からわかります。また、神がイエス・キリストという人となられた事実からも、神の恵み深さがわかります。
神の恵みを自分で獲得できる人は、誰もいません。恵みは賜物なのです。
神がなさることは、すべて正しいです。過ちはありません。「主は岩、その御業は完全で/その道はことごとく正しい。真実の神で偽(いつわ)りなく/正しくてまっすぐな方」(申32:4)。人類は神の正義と信頼性に依拠(いきょ)すればよいのです。「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」(一テサ5:24)。
神が義なるお方であることは、神の律法という形でも現れています。その例としては、人は自分が蒔いたものを刈り取ること(ガラ6:7参照)、罪が支払う報酬は死であること(ロマ6:23参照)があります。
しかし、何よりも神の恵みが優先されます。これも神の義の一つです。懲罰しか受けてこなかった罪人も、イエス・キリストによるならば、恵みに与(あずか)れるのです。その結果、神が人類の罪を責めることはもはやありません。
「御言葉の頭(かしら)はまことです。あなたはとこしえに正しく裁かれます。」詩119:160
「然(しか)り、全能者である神、主よ、/あなたの裁きは真実で正しい。」黙16:7
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通じて、神の恵みにより無償で義とされるのです。」ロマ3:24
神の御業は良く、神のなさることは正しいです。外的な必要性や制約に基づいて何かをなさることは一切無く、すべて御旨に基づいてなさいます。全く自由に物事をお決めになります。
神は真実においても完全です。神に関しては、偽(いつわ)り、ごまかし、不確実はありません。神の御旨と神の行いに齟齬(そご)もありません。
人類は、イエス・キリストを通じて、神が完全なるお方であるということがわかります。イエス・キリストは、この世において唯一完全なお方であったため、言動において罪も過(あやま)ちも無かったのです。
「神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。」詩18:31<口語訳18:30>
「三位一体の神」というのは、父、御子、聖霊がお一人の神であるということです。神が三人いるのではなく、三つの位格によるお一人の神ということです。
62 キリスト教では、なぜ神が三位一体であることを宗旨としているのですか。
神が三位一体であることは、旧約聖書でも新約聖書でも言及しています。キリスト教で神の三位一体性を信じるのは、こうした聖書の証しに基づくものです。
63 旧約聖書では、神の三位一体性について、どのように言及していますか。
最初に神の三位一体性を証しする記述があるのは、創世記1章26節の言葉です「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」ここで「我々」という、複数を指す表現が使われているのは、複数ある位格の神による働きがあったことを示しています。
神は、マムレの樫(かし)の木の所で、三人の人という姿で、アブラハムに御自身を現されました(創18章参照)。これは神の三位一体性に言及していると解釈することができます。
アロンがイスラエルの人々に宣言した三つから成る祝福(「アロンの祝福」)についても同じです((民6:24-26)。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔(みかお)を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」 民6: 24-26
64 新約聖書では、三位一体の神についてどのように言及していますか。
神の御子であられるイエス・キリストがヨルダン川で洗礼を受けられると、天が開け、聖霊が鳩のように御子のもとに降りました。天からは、父が次のように証しをされました。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」という声が、天から聞こえた」(マコ1:10-11)。ここでは、父、御子、聖霊がすべてその場におられたのです。
神の三位格については、イエスが使徒たちに与えられた大宣教令の中でも触れられています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(…なさい)」(マタ28:18-19)。
コリントの信徒への手紙二13章13節に書かれている祝祷の文言も、神の三位一体性に言及しています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」
65 神が三位一体であるという教えが確立したのはいつですか。
神は永遠の太古から三位一体でした。三位一体であるという教えが公式に定められたのは、紀元325年のニカイア宗教会議と381年のコンスタティノポリス宗教会議においてです。
神の三位一体性は、キリスト教の基本宗旨の一つです。
宗教会議[公会議]: 問33→の解説を参照
66 父、御子、聖霊は互いにどのように関係し合っていますか。
父、御子、聖霊というのは、神の三者の位格の呼称です。それぞれ別々ではあるものの、お一人の神です。
キリスト教では伝統として、その三者の位格に、それぞれ次のような独自の特質を与えています:
父なる神は、天と地の創造者です。
御子なる神は、贖い主として人となられて、人類を贖うために、その命を犠牲として捧げられました。
聖霊なる神[御霊なる神]は、新しい創造をもたらされます。つまり、神による救いに人類を与(あずか)らせ、新しい創造を果たされます。
新しい創造: 問528→以降を参照
67 「父」という表現は、神との関係で用いる場合、どのような意味になりますか。
「父」という言葉を、神との関係において用いる場合、これは創造者、権威、愛に溢(あふ)れた配慮という、聖なる側面と結びついています。神は御自分がお創りになったものの源泉であり、それを維持されるお方であります。そういう意味から、人は神に語りかけることができます。「父」である神が、人を創られたからです。
神の御子も参照: 問530→解説
68 創造者であられる神について、どのようなことがわかっていますか。
「初めに、神は天地を創造された」(創1:1)とありますが、見えるもの―つまり物質としてお創りになったもの―と、見えないものの、両方を創造されました。すべては神による創造の働きから生まれました。
神は、見本や素となるものも一切無い、全くの無から創られました「…存在していないものを呼び出して存在させる神…」(ロマ4:17)。また神は、それまでお創りになった事物から、物質や生物をお造りになり(創2:7-8, 19)、彼らに律法をお与えになりました。すべての被造物は神に従属します。
「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。[…]主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」創2:7-8, 19
被造物とそれが機能するための律法は、人には想像すらできない、神の知恵の高さを示すものです。これについて、詩編の著者はこう賛美しています。「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」(詩19:1[新共同訳19:2])。
70 神はどれくらいの期間をかけて、この世をお創りになりましたか。
神は六日間をかけて、この世をお創りになりました。ただこの「六日間」というのは、正確な時間を表しているわけではありません。創造の業における「一日」と、私たちの時間概念による「一日」とは、同一ではありません。
創世記2章2節には、次のように書かれています。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」
71 聖書では、天地創造の物語を、どのように伝えていますか。
天と地、光、地上の形、太陽、月、星、動植物、そして人類が、神の言葉によって創られた、と伝えています。すべてはとても良かった、とも書かれています(創1:31参照)。
いいえ。神による被造物には、目に見えないものもあります。その神秘性は ― 神御自身と同様に ― 人間には理解できません。それでも聖書は、物質的被造物以外の世界、発生、状態、存在について言及しています。
悪魔はもともと、天使の一人でした。そういう意味では、悪魔も見えない被造物の一つです。この天使は神に反発したため、不従順であったり、妬(ねた)んだり、嘘(うそ)をついたりしていたこの天使の手下らと共に、天国を追い出され、神との親しい関係を断たれました。
悪: 問217→以降を参照
「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し[…]。」二ペト2:4
「一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。」 ユダ6節
神を崇(あが)め、神から託されたことを遂行することで、神に奉仕することが天使の任務です。
神が人類を愛しておられることは、神が天使に、人類への奉仕をさせておられることからも明らかです。マタイによる福音書18章10節の言葉については、子供たちが天使による特別な御守護に与(あずか)っている、と解釈することもできます。
「わたしは、栄光に輝く主の御前に仕えている七人の天使の一人、ラファエルである。[…]わたしがあなたがたと共にいたのは、あなたがたに好意を持っていたからというより、神がそう望まれたからである。日々、神をほめたたえ、賛美の歌をささげなさい。」トビ12:15,18
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」 マタ18:10
「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。」ヘブ1:14
人は霊、魂、身体で構成された存在です(一テサ5:23参照)。身体はいずれ存在しなくなるものであり、神による見える被造物の一つです。一方、魂と霊は、神による見えない被造物に属します。物質的に死んでも、魂と霊は存在し続けますから、見えないものに関心を持つべきです。
この世において人が神に示した姿勢は、陰府(よみ)におけるその人の存在に、結果となって現れます。このように先のことを見通して考えれば、悪魔の誘惑に負けることなく、神に喜ばれる生き方をすることができます。
使徒パウロは、見えないものが重要であることをはっきりと述べています。「わたしたちの一時の軽い艱難(かんなん)は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(二コリ4:17-18)。見えないものに目を注ぐことにより、遭遇することに対する捉(とら)え方も変わります。