3 三位一体の神
神に目を向けて、神を崇(あが)めることによって、見えないものに関わることができます。
しかし、降霊術や霊を呼び出すという形で(心霊術)、見えないものに関わることは、神の御旨に反します(申18:10以降参照; サム上28章参照)。
「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者(ぼくしゃ)、易者(えきしゃ)、呪術師(じゅじゅつし)、(…) これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。」 申18: 10-12
霊を呼び出す、特に死者の霊を呼び出そうとする行為を「心霊術」といいます。
人は、目に見えるものであると同時に、目に見えないものでもあります。なぜなら人は、物質的な側面(身体)と非物質的な側面(魂と霊)の両方の特徴を持ち合わせているからです。
すべての被造物の中でも、神は人類に特別な地位を与え、それによって御自身との近い関係が持てるようにされました。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創1:26-27)。
「物質的」を意味する英語のmaterialマテリアルは、ラテン語で「物質」「内容」を意味するmateriaマテリアに由来します。目に見えるもの、実体があるもの、実際に触れることができるものを「物質的」といいます。
それに対して、「非物質的」とは、霊的なもの、目に見えないもの、人が触れられないものをいいます。
神は御言葉を通じて、すべてのものを創造し、人に対しては名前でお呼びになりました。このように人は、神から直接語りかけられ(「あなたは…食べてよろしい」)、神に愛されてきました。人は、神からの呼びかけを聞き、神の愛に応じることができます。
神にかたどった姿で人が創られたとは、神が人に語りかけ、物事を与え、愛や理性や不滅性という天来の特質を人と共有されるということです。
神は独立したお方です。つまり完全に自由であります。そして神は人類をお創りになりましたが、御自身にかたどってお創りになり、物事を自分で自由に決める機会を、人類にもお与えになりました。それと同時に、与えられた自由によって、人は自分の行動に責任をとることになります(創2:16-17参照)。
「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」創2: 16-17
83 「神にかたどった姿で」造られた者であるということは、神と人とが同じ性質で同じ姿をしているということですか。
いいえ。神にかたどって人が造られたからといって、人の体付きから、神の性質や姿がわかるわけではありません。
人が存在し得るか否かは、神にかかっています。
人は、創造主である神を知り、神を愛し、神を称(たた)えることができます。ですから人が神を信じよう信じまいと、人は神から出たものです。
85 目に見える被造物の中で、人間にはどのような任務がありますか。
神は人類に、彼らが生きるための環境をお与えになり、地上を「支配」すること、つまり地上を整える ― そして保護する ― ことを委託されました(創1:26, 28; 詩8:7[新共同訳8:8]参照)。
「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」創1:28
86 神にかたどって創られた人類は、被造物にあってどのようにふるまうべきですか。
人類には、被造物の扱いについて、その創造者である神に説明責任があります。節度をわきまえたうえで、自由に扱うことができます。神にかたどって創られた人類は、すべての生物とその住処(すみか)を、神の性質すなわち知恵と徳と愛に従って取り扱う必要があります。
87 最初の人類は、何の制約もなく自分たちのやりたいことができたのですか。
いいえ。神は、創造者として、主として、立法者として、園の中にある善悪を知る知識の木からものを取って食べてはならないという戒めを、アダムとエバにお与えになりました。そうすることによって、神にかたどった姿である彼らにお与えになった決断の自由を、彼らがどのように行使するかを、御覧になったのです。神は、戒めをお与えになった時、その戒めを守らないことによって生じる結果も同時に警告されました。
神の似姿: 問81→を参照
へびとして人類に近づいた悪しき者の影響を受けて、最初の人類は誘惑を受けました。二人は神から与えられていた戒めを破ってしまいました。これによって人は罪を犯すものとなりました。
堕罪による直接的結果として、神との別離、霊的な死が生じることとなりました。以来、人類は、地上で問題を抱えた存在となり、身体的な死をもって生涯を終えるものとなりました(創3:16-19参照)。
堕罪以来、人類は罪を犯す者、つまり、罪に巻き込まれ、罪無く生きることができない者となりました。
霊の死:問532→を参照
「お前のゆえに、土は呪(のろ)われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。[…]塵にすぎないお前は塵に返る。」 創3: 17, 19
神から離れた状態を、人が自分で元通りにすることはできません。しかし罪人であっても、神の慰めや助けに与(あずか)れないわけではありません。神は人が霊的に死んだままにはしておかれないのです。神は、人となられた[擬人化された]イエス・キリストが犠牲の死を遂げ、復活されたことによって、すべての人が霊の死から救出される機会を与えて下さいました。
神はへびに対して次のようにお告げになり、人類に初めて、キリストによる犠牲に言及されました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)。
91 神が人を霊、魂、体の総体としてお創りになったことには、どのような意味がありますか。
霊、魂、体は連携しています。互いに大きく影響し合っています。
身体は出産を通じて出現するため、親の性質や形態を共有しています。魂は神が直接お創りになったものです。ですから各人に対して、創造者として今も働きかけられます。
聖書によれば、魂と霊は厳密に区別されておりません。その霊と魂によって、人は霊の世界に入ったり、神を認識したり、神と関わりを持ったりすることができます。
『霊』と『魂』: 不滅である魂を『プシュケー』と混同すべきではありません。プシュケーは「魂」をもっと慣用的に指す表現です。同様に、知性と精神も区別すべきです。
人の身体はいつか無くなってしまいますが、魂と霊は永遠に存在し続けます。体が死んだ後、人は魂と霊の総体として生き続けます。死んだからといって、人を人たらしめているものに終止符が打たれるわけではありません。この個性は、魂と霊を通じて現れます。
死者が復活する時、魂と霊は、復活した体と一つに結ばれることになります。
身体が死んだ後の生命: 問531→以降を参照
御子なる神は、三位一体の神における、第二位格であります。「父」「御子」という呼び方は主従関係のようなものを連想するかもしれませんが、父なる神と御子なる神との間には、階層のような違いはありません。父も御子も等しく、真理の神であります。両者とも本質的に同じです。
御子なる神であるイエス・キリストは、人となられましたが、神に変わりはありませんでした。イエス・キリストは、ベツレヘムにおいて、処女マリアから誕生しました。
神であり人であるイエス・キリスト: 問103→以降を参照
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶(かいばおけ)に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適(かな)う人にあれ。』」ルカ2:1-14
95 イエスの降誕について、旧約聖書ではどのように言及されていますか。
旧約聖書では、まず、預言者イザヤによる約束の言葉があります。「それゆえ、わたしの主が御自(みずか)ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザ7:14)。
預言者ミカはイエスがお生まれになる場所を預言しました。「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治(おさ)める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5:2[新共同訳5:1])。
イザヤはイエスについて、その唯一性を強調するために、呼称を用いて表現しています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる」(イザ9:6[新共同訳9:5])。
インマヌエル(「神はわれらとともに」): 問115→を参照
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」 ガラ4: 4
問4→も参照
バプテスマのヨハネが、イエスのために道を備えました。このイエスがおいでになる前の先駆者については、神によって預言されていました(マラ3:1参照)。彼は悔い改めを言い広め、イエス・キリストが贖い主であることを宣べ伝えました。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタ3:11)。
聖書の記録によれば、バプテスマのヨハネは、イエスを神の御子と呼び、そのことを人々に宣べ伝えた最初の人物でした。
「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 」ヨハ1: 6-8
「「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」ヨハ1: 34
97 バプテスマのヨハネはイエス・キリストについて、どのように述べていましたか。
イエスがヨハネのところにおいでになると、ヨハネはこう言いました。「『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(ヨハ1:29, 35-37)。
「小羊」という表現には、イエスを贖い主として紹介しようとする意図があり、イザヤ書53章7節の言葉に結びついています。「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠(ほふ)り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」古代から、小羊は、旧約においていけにえとして捧げるのにふさわしい動物と考えられていました。屠られた「神の小羊」というたとえは、イエス・キリストによる犠牲の死を表しているのです。
99 イエスによる犠牲の死は、私たちにとってどのような意味がありますか。
神の御子は、御自分が犠牲として死なれたことによって、罪人が霊の死から救出され、永遠の命を得るための道を据えられました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(一ヨハ4:9-10)。
100 イエス・キリストは「独(ひと)り子」である、とはどういう意味ですか。
イエスを神の「独り子」と表現することは、神の御子であるイエス・キリストが無類のお方であり、永遠であるという意味があります。
神の御子は、人類と同じ被造物の一部ではありませんし、天使と対比し得る存在でもありません。天使には初めがありますが、御子には初めも終わりもありません。御子は神ですから、本質的に父及び聖霊と同じであります。ですから御子は ― すべての被造物が生まれる前から ― すでに父や聖霊と共におられました(先在(せんざい))。
「先在」を意味する英語は、ラテン語の「前」を意味するpraeと、同じくラテン語の「存在」を意味するexistentiaが語源です。イエス・キリストとの関連で言えば、先在とは、神の御子は永遠から来られたことを意味します。つまり、天地創造や、御自身の擬人化以前から、いつも存在していたということです。
101 神の御子が「言 (「ロゴス」)」である、ということについて、どのように理解すべきですか。
神は、言(ことば)を通じて、万物を有意義な方法で創造し秩序を設けられました(創1:3「神は言われた…」)。つまり、言(ことば)は源(みなもと)であり、言(ことば)から万物が生まれました。
また、「言(ギリシア語で「ロゴス」)」という表現は、ヨハネによる福音書の第一章では、神の御子を表すのに使われています。これは、御子なる神が、父なる神及び聖霊なる神と同様に、創造主であるということを表しています。
「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった。万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」 ヨハ1: 1-3, 14
102 ヨハネは「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書いていますが、これはどういう意味ですか。
ヨハネによる福音書1章14節に、神の御子(言)は「肉」となった、と書いてあります。つまり実際に人となられた、ということです。御子はベツレヘムでお生まれになり、ナザレで成長し、そこで大工の見習いをしておられました。そしてエルサレムで死なれました。ゴルゴタの丘で十字架に磔(はりつけ)となったのです。
103 人であられた時のイエス・キリストは、他の人々と同じでしたか。
はい。人間性において、イエス・キリストは他の人たちと同じでした。キリストは、人としての存在において、体とそれに伴って必要とされるものを持っておられました。砂漠にいる時には、空腹を覚えられました。ヤコブの井戸に来た時には、喉(のど)の渇(かわ)きを覚えておられました。カナの婚礼の時には喜び、ラザロが死んだ時には涙を流されました。イエスはエルサレムの町を前にして、御自分が神の御子であることを人々が認めないことを知った時も、涙を流して泣かれました。兵士たちから鞭打たれた時には、苦しみをお感じになりました。
しかし、罪が無い状態でこの世においでになり、決して罪を犯すことがなかったという点では、他の人たちと異なっていました。イエスは、十字架上で死なれるまで、父なる神に従順でした。
いいえ。イエスは人でもあり神の御子でもありました。つまり、真の神でもあったわけです。
イエス・キリストは真の人であり真の神でした。人としての性質と神としての性質の両方を備えておられたのです。
105 イエス・キリストが真の神でもあったことは、聖書のどこに証しされていますか。
イエス・キリストは真の神であるからこそ「わたしと父とは一つである」と仰せになり(ヨハ10:30)、御自分が天の父と本質的に同一であることをお伝えになったのです。
イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時、天から次のような声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」(マタ3:17)。イエスの姿が変貌する間、イエスが神の御子であることを、天の父もはっきりと仰せになりました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタ17:5)。イエスが「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われたのも(ヨハ14:9)、イエスが神であることの証拠です。
106 イエスが真の神であることは、御自身のどのような行動からわかりますか。
イエスがなさった奇跡から、真の神であることがわかります。イエスは嵐を鎮め、ガリラヤ湖の水の上を歩かれましたが、それは自然現象がイエスに服従したからです。イエスは、病人を癒(いや)し、死者を蘇(よみがえ)らせたことによって、御自分が生死を支配する主であることをお示しになりました。パンと魚を増やして、数千人の食事をまかなったり、水をぶどう酒に変えたりしたことは、人間の能力をはるかに超えることです。イエスは罪を支配する主であったため、何度も罪をお赦しになりました。
イエスの奇跡: 問140→以降を参照
「神<日本語訳=キリスト>は肉において現れ<…>た。」 一テモ3:16
この方<イエス・キリスト>こそ、真実の神、永遠の命です。」 一ヨハ5: 20