12 礼拝、祝福、牧会
礼拝とは、神の人類に対する働きかけであると同時に、人類が神のために行う務めです。
礼拝に集うのは、神を崇(あが)め、称(たた)え、感謝を捧げるためであると同時に、神の御言葉を聞き、サクラメントに与(あずか)るためです。
ですから礼拝は神と人との出会いです。礼拝の中で、会衆は三位一体の神の御臨在を認知し、神が愛をもって仕えて下さるのを体験します。
旧約時代における礼拝とは、基本的に犠牲を捧げることであり、礼拝の中で祭司が神に賜物を捧げていました。祭司は人々に、神の祝福を与える任務も与えられていました(民6:22-27参照)。
ダビデ王の時代から、礼拝で歌や音楽も役割を担(にな)い、詩編の言葉を用いて神を称(たた)えました(代上25:6参照)。
バビロン捕囚(前597-前539)の期間は、敬虔(けいけん)なユダヤ人が専用に造った建物(シナゴーグ)に集まり、祈りを捧げ聖書の講義を行いました。これが後のキリスト教による礼拝形式の原型の一つになりました。
615 初期のキリスト教会では、礼拝でどのようなことが行われていましたか。
初期のキリスト教会で行われていた礼拝の式次第については、まとまった記録が全くありません。礼拝では、福音が宣教され、会衆によって信仰が告白され、一同で祈りが捧げられ、賛美歌が斉唱され、聖餐が執(と)り行われていました。
キリスト教の礼拝には、何世紀にもわたって儀礼的性格を持ち合わせていました。つまり礼拝は、既定の口上(こうじょう)と賛美歌による儀礼が基本だった、ということです。
これが多くの教派で変化したのは、宗教改革以降です。多くの教派では、説教が礼拝の中心となりました。新使徒教会ではこの伝統が守られており、メモを用いないで説教が行われます。
はい。礼拝を始める時に、「父、御子、御霊なる神の御名によって」という開会祈祷文によって神をお呼びします。三位一体の神をお呼びするこの開会祈祷文によって、御子イエスが約束された通り(マタ18:20参照)、神がその場におられることを、礼拝の出席者に明らかにします。
エルサレムにいた初期のキリスト教徒たちについて、聖書には次のように書いてあります。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂(さ)くこと、祈ることに熱心であった((使徒2:42)。このことから使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることが礼拝の基本であることがわかります。
「使徒の教え」とは、イエス・キリストの教え、言い換えれば、御子が死なれ、復活され、再臨されるという福音を、使徒が宣べ伝えることを言います。この使徒の教えは礼拝の中で、使徒の委任を受けて活動する教役者によっても、宣べ伝えられます。
620 「パンを裂く」とは、私たちにとってどういう意味ですか。
「パンを裂く」とは、聖餐を執(と)り行うことです。聖餐は礼拝の中心的行事であり、イエスによる犠牲の業(わざ)を、感謝をもって記念するものです。
聖餐: 問494→以降を参照
礼拝でいう「交わり」とは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)というイエス・キリストの御言葉が成就することであると解釈します。
礼拝におけるこの「交わり」とは、信徒が一同で神を崇め、称え、感謝を捧げることでもあります。こうして信徒同士も交わることになります。
622 礼拝で行われる「祈り」には、どのような役割がありますか。
祈りは、礼拝に欠かせません。
礼拝で、会衆は司式者の祈りによって一つになります。祈りでは、崇拝、感謝、執り成し、嘆願が述べられます。
会衆は、罪の赦しが行われる前に、主の祈りを唱えます。聖餐に与った後、めいめいが神に感謝の黙祷を捧げます。
623 「御言葉の宣教」(説教))とは、どういうことですか。
神の御言葉は礼拝の中で宣べ伝わります。教役者は、聖霊の鼓舞(こぶ)による所感のみを、言葉に表します。これを「御言葉の宣教」もしくは「説教」と言います。
新使徒教会の礼拝では、説教のためにあらかじめ用意した原稿を読むという形式をとっていません。説教は聖書の言葉を基本として、司式者がメモを見ずに自由に聖書の言葉を解説します。
説教は神によって鼓舞されるため、その言葉が「生きて」おり、それゆえに、
- 人生や信仰に関する疑問に答えてもらい、
- 信仰が強まり、
- 慰めが与えられ、
- 自信が得られ、
- 忠告をしてもらったり、決断する際の助けを受けたりすることができます。
祭壇から述べられる御言葉は、神の御旨に従って生きるための指針を示してくれます。
説教は、イエスの言葉によれば、魂の「食べ物」です「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタ4:4)。
625 礼拝で神の御言葉を宣べ伝えるために、誰が召(め)されますか。
礼拝で神の御言葉を宣べ伝えるのは、使徒と、説教を使徒から委託された教役者です。
説教の中身は、主にイエス・キリストの福音と、イエスが犠牲として捧げられ、復活されてまたおいでになるという良い知らせであります。
聖霊は教役者を通じて語られます。このような方法で信仰が鼓舞(こぶ)され、積み上げられます。御言葉の宣教には常に、会衆をイエス・キリストの再臨に備えさせるという目的があります(二コリ11:2参照)。
627 説教を宣べ伝えたり、それを聞いたりする際に、いかなる間違いも認められませんか。
御言葉を宣べ伝える人は、誰であれ罪人です。弱さもあり過(あやま)ちも犯します。しかし担っている職務は神からいただいているので、聖なるものです。もし不完全さを持ち合わせている人が御言葉を宣べ伝えれば、その御言葉の中に間違いが紛(まぎ)れ込むこともあり得ます。しかし、人が語る言葉の中に、神が力を与えて下さいます。
聞く側も罪人です。弱さもあり過ちも犯します。ですから聞いたことをきちんと理解できないことがあります。それでも信仰をもって御言葉を受け入れれば、不完全であったり過ちがあったりしても、説教に含まれている天来の力をすべて魂に吸収することができます。
聞き手は、説教を聞く前に、御言葉に力と平和を与えて下さるように、主に祈ることが必要です。そして信仰をもって説教を受け止め、それを思いや言葉や行動において実践します。そうすることによって、キリストに従った生き方をするのです。
629 罪の赦しと聖餐が執り行われる際、聞き手はどのような準備をしますか。
聞き手は、司式者による適切な言葉によって、罪の赦しと聖餐の執行に備えます。それと共に、罪の赦しに備えて、悔い改めの賛美歌を歌います。その際に会衆は自分の罪深さを告白し、助けていただかなければならないことを訴えます。
630 礼拝の中で、祈る言葉が決まっているただ一つの祈りは何ですか。
イエスが教えられた祈りである、主の祈りです。これは、信徒が一同で定型文通りに唱えるただ一つの祈りです。
主の祈りには、五つの嘆願のものと(ルカ11:2-4参照)、さらに細分化された七つの嘆願のもの(マタ6:9-13参照)とがあります。
631 礼拝中に唱えられる主の祈りは、どのような文言ですか。
礼拝では、マタイによる福音書による主の祈りを唱えます:
「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ。
願(ねが)わくは御名(みな)を崇(あが)めさせたまえ。
御国(みくに)を来(き)たらせたまえ。
御心(みこころ)の天(てん)になるごとく、地(ち)にも成(な)させたまえ。
我(われ)らの日用(にちよう)の糧(かて)を、きょうも与(あた)えたまえ。
我(われ)らに罪(つみ)を犯(おか)す者(もの)を、我(われ)らが赦(ゆる)すごとく、我(われ)らの罪(つみ)をも赦(ゆる)したまえ。
我(われ)らを試(こころ)みに遭(あ)わせず、悪(あく)より救(すく)い出(いだ)したまえ。
国(くに)と力(ちから)と栄(さか)えとは、限(かぎ)りなく汝(なんじ)のものなれば成(な)り。
アーメン。」
632 「天にまします」とは、どういう意味ですか。(英語は633)
「天にまします」は、神がこの世の万物より優(まさ)り高位にあることを強調しています。それでも神は、その万能性によって、人々の近くにおられます。
神の子: 問530→の解説を参照
633 「我らの父よ。」とは、どういう意味ですか。(英語は632)
「我らの父よ」という表現は、主の祈りが一同で捧げる祈りであることを表しています。神を「父よ」と呼びかける場合、自分たちが神によって創られた存在であること、神が自分たちの主であること、神が自分たちを養って下さることを表します。恐れることなく、愛と確信とをもって、神を「父よ」と呼びかけます。
634 「願わくは御名を崇めさせたまえ。」とは、どういう意味ですか。
これは、主の祈りにおいて、一番目に願うことです。神は聖なるお方です。信徒は、神にあらゆる栄光を捧げ、御旨に適(かな)った生活に努めることによって、御名を崇めます。この嘆願は、十戒のうちの第二の戒めと関連しています。
神の御国は、イエス・キリストを通じて、人類のところに臨みます。「御国を来たらせたまえ」と願うことによって、キリストの本質を会衆がさらに自覚できるように願います。またこの祈りは、将来における神の御国が早く示されることを願うものでもあります。この御国がおとずれるのは、花嫁の会衆を天の故郷に引き上げるためにキリストが再びおいでになる時です。
636 「御心の天に成るごとく、地にも成させたまえ。」とは、どういう意味ですか。
神が玉座で支配しておられる領域、すなわち天においては、何の制約もなく神の御旨が支配します。この祈りは、地上においてすべての物事が神の御旨の通りに行われることを願うものです。またこの祈りは、信徒自身が神の御旨を行えるように願うものでもあります。
637 「我らの日用の糧を、きょうも与えたまえ。」とは、どういう意味ですか。
このように祈ることで、信徒は生活に必要なあらゆるものを与えていただけるように願います。また、神の御言葉という「食糧」を、不滅である魂に与えて下さるように願う祈りでもあります。