12 礼拝、祝福、牧会
638 「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」とは、どういう意味ですか。
すべての人は、自分の犯した罪に対する責任を負います。この祈りの言葉によって、信徒は自分が神の御前で罪人であることを自覚し、赦していただくことを神に願います。神は慈悲深いお方であり、私たちを赦して下さいます。ですから神は、私たちも他人の過(あやま)ちを赦してあげてほしいと願っておられます。そういうわけで、私たちが和解でき、赦そうとする気持ちがあって、はじめて私たちは赦していただけます。
「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」マタ18:21-2
罪に全力で対抗できるように願うものです。また信仰による厳しい試み[誘惑]から守って下さるように願うものでもあります。
640 「悪より救い出したまえ。」とは、どういう意味ですか。
この嘆願の言葉は、神が悪しき者の力から守っていただきたいという願いを表しています。突き詰めれば、悪しき者から永遠に守っていただくことによって、究極的に神に贖っていただきたいという願いです「わたしたちは、この御子によって、[…]罪の赦しを得ているのです」(コロ1:14)。
悪: 問217→以降を参照
641 「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなれば成り」とは、どういう意味ですか。
これは神を称(たた)える表現です(頌栄(しょうえい))。全能なる神の栄光を称えるためのものであり、この言葉によって、神に帰すべき栄光が神に与えられます。これによって、私たちの視線は、神による救いの御計画の完成に向かいます。そして、贖われた者たちは、神の御臨在において、その栄光を体験することができるでしょう。
救いの御計画: 問243→以降を参照
「アーメン」とは、ヘブライ語から来た言葉で、「その通りになりますように」という意味があります。主の祈りを結ぶ言葉であり、主の祈りで表明されたすべての事柄を再度深める言葉でもあります。
罪の赦しが宣言されるのは、主の祈りを一同で唱えた直後です。
使徒は、イエス・キリストが言われた言葉をそのまま引用して、罪の赦しを宣言します。「あなた方に喜ばしいおとずれを宣言致します: 生ける神の御子主イエス・キリストの御名によって、あなた方の罪は赦されました。天に昇られたお方の平安が、あなた方と共にありますように。アーメン。」
司祭職が罪の赦しを宣言する場合は、使徒職に言及します。「私を遣わした使徒の委託を受けて、あなた方に喜ばしいおとずれを宣言致します: 生ける神の御子主イエス・キリストの御名によって、あなた方の罪は赦されました。天に昇られたお方の平安が、あなた方と共にありますように。アーメン。」
いいえ。罪の赦しはサクラメントではありません。しかし罪の赦しは、サクラメントにふさわしく与(あずか)るための前提となります。
罪を赦していただけるのは、神 ― 愛の神であるがゆえに ― 御自身の御子を地上に遣わして下さったからです。罪が赦されるために、御子は十字架で死なれ、永遠に有効な犠牲となられました。イエスは自(みずか)ら御自分の命を捧げて、サタンの力を粉砕し、サタンとその業である、罪と死とに勝利されたのです。この時以降、罪から解放されることが可能となりました(マタ26:28参照)。
イエスが私たちのために御自分の命を犠牲として捧げられたのは、私たちの罪を赦せるようにして、私たちが罪の支配下にとどまらなくてもよいようにするためでした。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハ1:29
「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた…。」ロマ5:10
罪を赦すことができるのは、三位一体の神です。人の力で罪を赦したり、罪から解放したりすることはできません。「主から罪があると見なされない人は、/幸いである」(ロマ4:8)。
はい。罪が赦されたことは、宣言しなければなりません。使徒たちは、イエスが言われたことに従って、イエスから委託を受けて、罪の赦しを宣言します「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(ヨハ20:23)。使徒が罪の赦しを宣言することによって、イエスによる犠牲の業を信徒に与(あずか)れるようにします。司祭職にある者は、使徒から権限を受けて、罪の赦しを行います。
649 罪を赦していただくために、何をしなければなりませんか。
罪の赦しを得るためには、以下のことが必要です。
- イエスが贖い主であることを信じなければなりません(ヨハ8:24参照)。
- さらに、罪の赦しが使徒から宣べ伝えられていることを信じなければなりません。
- 罪を犯してきた責(せ)めを負わねばならず、そこで恵みが必要であることを、自覚する必要があります。
- 神と和解させていただきたいという願望がなければいけません。
- 主の祈りで。「我らの罪をも赦したまえ」と祈ることによって、自らの罪を悔いて、そのことを神の御前で告白しなければなりません。
- 弱点や過(あやま)ちを克服しようと、堅く決心しなければなりません。
- 自分がある人に対して過ちを犯し、その人に負い目を持っているならば、その人と和解したいという気持ちがなければいけません。
「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」ヨハ8:24
罪を犯したことを自覚しているということは、自分の弱さや過(あやま)ちを自覚することでもあります。そのためには自己点検が必要です。
弱さや過ちがわかれば、悔い改めにつながっていきます。
悔い改めとは、犯した過(あやま)ちを自覚し、その責めを負って、弱さや過ちを克服しようと固く決意することです。
呵責とは、作為または不作為による過ちによって生じた傷心(しょうしん)であります。深刻な姿勢で責めを負うことによって、自(みずか)ら進んで隣人と和解したり、もたらされた損失を可能な限り償(つぐな)おうとしたりする姿勢を示すことになります。
652 罪が赦されることによって、どのような効果がありますか。
罪が赦されることによって、私たちの罪が清められ、神との関係で存在した罪責から解き放たれます。
罪が赦されると「天に昇られたお方の平安が、あなた方と共にありますように」という宣言によって、イエス・キリストの平安が保証されます。この宣言を信仰によって心で受け止めるならば、罪によって生じるあらゆる恐怖は感じられなくなります。
罪の赦しとは関係なく、罪深い行為によって生じた結果責任は、物質的性質のものであろうと法的性質のものであろうと、果たすことになります。
はい。聖霊に対する冒涜(ぼうとく)は、赦されない罪であります。これについて御子はこう言われました。「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マコ3:29)。
敵愾心(てきがいしん)を持った卑劣な動機で、聖霊が悪魔的あるいは人を惑わす力であるかのように、意図的に触れて回る人は、聖霊への冒涜罪としてその責めを負うことになります。
洗礼と聖餐は、使徒または使徒から委託を受けている司祭職が施与します。御霊の証印は、使徒職だけが施与します。
洗礼と御霊の証印は、一度だけ施与します。聖餐は繰り返し施与します。
はい。幼児も三つのサクラメントをすべて受けることができます。可能ならば、聖餐は会衆と一緒に受けます。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マコ10:14)というイエスの御言葉に従い、幼児は洗礼、御霊の証印、聖餐に与ります。
幼児洗礼: 問489→を参照
はい。日曜礼拝及び教会の祝祭日において、会衆が聖餐を受けた後に、主使徒と教区使徒、または教区使徒から委託を受けた使徒は、故人のための聖餐を執り行います。その際、二名の教役者が代理となって、故人になり代わってキリストの体と血に与ります。
年に3回、3月と7月と11月のそれぞれ第一日曜日に、特別礼拝が執り行われ、主使徒、教区使徒、教区使徒から委託を受けた使徒が、故人に対して三つのサクラメントを施与します。これらのサクラメントも、代理として仕える二人の教役者に対して施与されます。
故人の救済: 問545→を参照
故人にサクラメントを施与できることについては、コリントの信徒への手紙一15章29節に明確にされています。「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。」
神は御自身の祝福を、人々の様々な生活状況の中で分け与えて下さいます。「祝福行為」とは、特別な時に教会で行われる行為のすべてを言います。祝福行為はサクラメントではありません。
サクラメント: 問472→以降を参照
祝福が行われる時、神は、祝福を心から強く待ち望む人に目を向けられます。神は使徒や司祭職を通じて、祝福を求める者たちに祝福を与え、助けや恵みや憐れみを提供されます。
教会など会衆が神を崇めるための場所を寄進する献堂式も、広い意味では、祝福行為の一つです。
礼拝中の祝福行為には、堅信礼、新使徒教会での受洗認証、婚約の祝福、結婚の祝福、結婚記念日の祝福があります。叙任や、霊の職務に関するその他の祝福行為も、礼拝の中で行われます。