2.4.10 第十条

私は、神による律法が侵されない限り、この世の権力に服従する義務を負うことを信じます。

 

第十条は、それまでの九つの信条文と、根本的に異なっている。第一条から第九条では、神による創造の業、御子と聖霊、教会、教会で行われる牧会宣教やサクラメント、未来への希望を扱っているのに対して、第十条が扱っているのは、キリスト教徒の国家との関わり方である。

 

第十条では、キリスト教徒が公及び社会の現実的枠組みから逸脱しない生き方をすることが明確に示されている。キリスト教が国家つまり「この世の権力」に対して肯定的な関係にあるのが普通である、ということである。こうした肯定的な関係を「服従」という表現で集約している。

 

キリスト教会と政治権力との関係は、新約時代からかなり検討されていた(一ペト2:11-17)。ローマの信徒への手紙13章1-7節では国家を「神に仕える者」と表現していることは、よく知られているところである。しかしこの表現は多くの誤解を生んだ。たとえ不法な国家であっても無条件に服従しなければならない、と解釈される可能性があるためである。しかしこのような解釈では、国家が神に仕える、つまり神の御旨 ― 例えばモーセの十戒 ― が国家の律法を定める上での規範である、という観点が抜け落ちてしまう。

 

ローマの信徒への手紙13章1-7節は第十条の背景でもある。ここでは「服従すること」 ― つまり国家への忠誠 ― だけを要求しているのではない。「神による律法が侵されない限り」とあるように、服従すべき対象の正当性を判断する基準が示されている。国家も、完全に自由というわけではなく、神の秩序には従わなければならない。国の律法と神の秩序とが矛盾せず、両者が一定程度の相補関係にあるならば、キリスト教徒は、その国の律法を肯定的に受け入れ、それを遵守しなければならない。しかし国の律法が神の秩序に矛盾するならば、めいめいが「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使5:29)。

まとめ

聖書や初代教会信条文を、信仰の権威と位置づけることが使徒職の任務である。(2.4→)

 

第一条は、父なる神による創造の業を扱っている。 (2.4.1→)

 

第二条は、キリスト教の土台でありその実質である、イエス・キリストについて述べている。 (2.4.2→)

 

第三条は、神の第三位格である聖霊を信じること、教会を信じること、その他救いの要素を信じることを告白する。 (2.4.3→)

 

第四条は、イエス・キリストが教会を統治すること、及びその統治が使徒の派遣という形で行われていることを宣言している。 (2.4.4→)

 

第五条は、神が霊の職務を人にお与えになること、教役職が使徒職を通して権能と、祝福と、聖別とを受けることを述べている。 (2.4.5→)

 

第六条は、洗礼について述べている。 (2.4.6→)

 

第七条は、聖餐について述べている。 (2.4.7→)

 

第八条は、御霊の証印について述べている。 (2.4.8→)

 

第九条は、キリストの再臨とその後の出来事について述べている。 (2.4.9→)

 

第十条は、キリスト教徒と国家との関係のあり方について扱っている。 (2.4.10→)